来た、戻って来た、僕の歌ごえが僕にまた戻って来た。これは僕の錯乱だろうか。これは僕の無限回転だろうか。だが、戻って来るようだ、戻ってくるようだ。何かが今しきりに戻って来るようだ。僕のなかに僕のすべてが。……僕はだんだん爽やかに人心地がついてくるようだ。僕が生活している場がどうやらわかってくるようだ。僕は群衆のなかをさまよい歩いてばかりいるのではないようだ。僕は頭のなかをうろつき歩いてばかりいるのでもないようだ。久しい以前から僕は踏みはずした、ふらふらの宇宙にばかりいるのでもないようだ。久しい以前から、既に久しい以前から鎮魂歌を書こうと思っているようなのだ。鎮魂歌を、鎮魂歌を、僕のなかに戻ってくる鎮魂歌を……。
僕は街角の煙草屋で煙草を買う。僕は突離された人間だ。だが殆《ほとん》ど毎朝のようにここで煙草を買う。僕は煙草をポケットに入れてロータリーを渡る。鋪道《ほどう》を歩いて行く。鋪道にあふれる朝の鎮魂歌……。僕がいつも行く外食食堂の前にはいつものように靴磨屋《くつみがきや》がいる。鋪道の細い空地《あきち》には鶏を入れた箱、箱のなかで鶏が動いている。いつものように何もかもある。電車が、自動車が、さまざまの音響が、屋根の上を横切る燕《つばめ》が、通行人が、商店が、いつものように何もかも存在する。僕は還るところを失った人間。だが僕の嘆きは透明になっている。何も彼も存在する。僕でないものの存在が僕のなかに透明に映ってくる。それは僕のなかを突抜けて向側へ翻《ひるがえ》って行く。向側へ、向側へ、無限の彼方《かなた》へ、……流れてゆく。なにもかも流れてゆく。素直に静かに、流れてゆくことを気づかないで、いつもいつも流れてゆく。僕のまわりにある無数の雑音、無数の物象、めまぐるしく、めまぐるしく、動きまわるものたち、それらは静かに、それらは素直に、無限のかなたで、ひびきあい、結びつき、流れてゆくことを気づかないで、いつもいつも流れてゆく。書店の飾窓の新刊書、カバンを提《さ》げた男、店頭に置かれている鉢植《はちうえ》の酸漿《ほおずき》、……あらゆるものが無限のかなたで、ひびきあい、結びつき、ひそかに、ひそかに、もっとも美しい、もっとも優しい囁《ささや》きのように。僕はいつも行く喫茶店に入り椅子に腰を下ろす。いつもいる少女は、いつものように僕が黙っていても珈琲《コーヒー》を運んでくる。僕は剥《は》ぎとられた世界の人間。だが、僕はゆっくり煙草を吸い珈琲を飲む。僕のテーブルの上の花瓶《かびん》に活《い》けられている白百合《しらゆり》の花。僕のまわりの世界は剥ぎとられてはいない。僕のまわりのテーブルの見知らぬ人たちの話声、店の片隅《かたすみ》のレコードの音、僕が腰を下ろしている椅子のすぐ後の扉を通過する往来の雑音。自転車のベルの音。剥ぎとられていない懐《なつか》しい世界が音と形に充満している。それらは僕の方へ流れてくる。僕を突抜けて向側へ移ってゆく。透明な無限の速度で向側へ向側へ向側へ無限のかなたへ。剥ぎとられていない世界は生活意欲に充満している。人間のいとなみ、日ごとのいとなみ、いとなみの存在、……それらは音と形に還元されていつも僕のなかを透明に横切る。それらは無限の速度で、静かに素直に、無限のかなたで、ひびきあい、むすびつき、流れてゆく、憧《あこが》れのようにもっとも激しい憧れのように、祈りのように、もっとも切なる祈りのように。
それから、交叉点《こうさてん》にあふれる夕の鎮魂歌……。僕はいつものように濠端《ほりばた》を散歩して、静かな、かなしい物語を夢想している。静かな、かなしい物語は靴音のように僕を散歩させてゆく。それから僕はいつものように雑沓の交叉点に出ている。いつものように無数の人間がそわそわ動き廻っている。いつものようにそこには電車を待つ群衆が溢《あふ》れている。彼|等《ら》は帰って行くのだ。みんなそれぞれ帰ってゆくらしいのだ。一つの物語を持って。一つ一つ何か懐しいものを持って。僕は還るところを失った人間、剥ぎとられた世界の人間。だが僕は彼等のために祈ることだってできる。僕は祈る。(彼等の死が成長であることを。その愛が持続であることを。彼等が孤独ならぬことを。情欲が眩惑《げんわく》でなく、狂気であまり烈しからぬことを。バランスと夢に恵まれることを。神に見捨てられざることを。彼等の役人が穏かなることを。花に涙ぐむことを。彼等がよく笑いあう日を。戦争の絶滅を。)彼等はみんな僕の眼の前を通り過ぎる。彼等はみんな僕のなかを横切ってゆく。四つ角の破れた立看板の紙が風にくるくる舞っている。それも横切ってゆく。僕のなかを。透明のなかを。無恨の速度で憧れのように、祈りのように、静かに、素直に、無限のかなたで、ひびきあうため、結びつくため……。
それから
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