ろんな声が僕の耳に戻ってくる。

[#天から2字下げ]アア オ母サン オ父サン 早ク夜ガアケナイノカシラ

 窪地で死悶えていた女学生の祈りが僕に戻ってくる。

[#天から2字下げ]兵隊サン 兵隊サン 助ケテ

 鳥居の下で反転している火傷娘の真赤な泣声が僕に戻ってくる。

[#天から2字下げ]アア 誰カ僕ヲ助ケテ下サイ 看護婦サン 先生

 真黒な口をひらいて、きれぎれに弱々しく訴えている青年の声が僕に戻ってくる、戻ってくる、戻ってくる、さまざまの嘆きの声のなかから、

[#天から2字下げ]ああ、つらい つらい

 と、お前の最後の声が僕のなかできこえてくる。そうだ、僕は今|漸《ようや》くわかりかけて来た。僕がいつ頃から眠れなくなったのか、何年間僕が眠らないでいるのか。……あの頃から僕は人間の声の何ごともない音色のなかにも、ふと断末魔の音色がきこえた。面白そうに笑いあっている人間の声の下から、ジーンと胸を潰すものがひびいて来た。何ごともない普通の人間の顔の単純な姿のなかにも、すぐ死の痙攣《けいれん》や生の割れ目が見えだして来た。いたるところに、あらゆる瞬間にそれらはあった。人間一人一人の核心のなかに灼《や》きつけられていた。人間の一人一人からいつでも無数の危機や魂の惨劇が飛出しそうになった。それらはあった。それらはあった。それらはあった。それらはあった。それらはきびしく僕に立ちむかって来た。僕はそのために圧潰《おしつぶ》されそうになっているのだ。僕は僕に訊《たず》ねる。救いはないのか、救いはないのか。だが、僕にはわからないのだ。僕は僕の眼を捩《も》ぎとりたい。僕は僕の耳を截《き》り捨てたい。だが、それらはあった、それらはあった、僕は錯乱しているのだろうか。僕のまわりをぞろぞろ歩き廻っている人間……あれは僕ではない。僕ではない。だが、それらはあった。それらはあった。僕の頭のなかを歩き廻っている群衆……あれは僕ではない。僕ではない。だが、それらはあった、それらはあった。
 それらはあった。それらはあった。と、ふと僕のなかで、お前の声がきこえてくる。昔から昔から、それらはあった、と……。そうだ、僕はもっともっとはっきり憶い出せて来た。お前は僕のなかに、それらを視つめていたのか。僕もお前のなかに、それらを視ていたのではなかったか。救いはないのか、救いはないのか、と僕たちは昔から叫びあっていたのだろうか。それだけが、僕たちの生きていた記憶ではなかったのか。だが救いは。僕にはやはりわからないのだ。お前は救われたのだろうか。僕にはわからない。僕にわかるのは救いを求める嘆きのなかに僕たちがいたということだけだ。そして僕はいる、今もいる、その嘆きのなかにつらぬかれて生き残っている。そしてお前はいる、今もいる、恐らくはその嘆きのかなたに……。
 救いはない、救いはない、と、ふと僕のなかで誰かの声がする。僕はおどろく。その声は君か、友よ、友よ、遠方の友よ、その声は君なのか。忽ち僕の眼のまえに若い日の君のイメージは甦《よみがえ》る。交響楽を、交響楽を人類の大シンフォニーを夢みていた友よ。人間が人間とぴたりと結びつき、魂が魂と抱きあい、歓喜が歓喜を煽《あお》りかえす日を夢みていた友よ。あの人類の大劇場の昂《たか》まりゆく波のイメージは……。だが(救いはない、救いはない)と友は僕に呼びつづける。(沈んでゆく、沈んでゆく、一切は地下に沈んでゆく。それすら無感覚のわれわれに今救いはないのだ。一つの魂を救済することは一つの全生涯を破滅させても今は出来ない。奈落《ならく》だ、奈落だ、今はすべてが奈落なのだ。今はこの奈落の底を見とどけることに僕は僕の眼を磨《と》ぐばかりだ)友よ、友よ、遠方の友よ、かなしい友よ、不思議な友よ。堪えて、堪えて、堪え抜いている友よ。救いはないのか、救いはないのか。……僕はふらふら歩き廻る。やっぱし歩き廻っているのか。僕のまわりを歩きまわっている群衆。僕の頭のなかの群衆。やっぱし僕は雑沓のなかをふらふら歩いているのか。雑沓のなかから、また一つの声がきこえてくる。ゆるいゆるい声が僕に話しかける。

  〈ゆるいゆるい声〉

 ……僕はあのときパッと剥《は》ぎとられたと思った。それからのこのこと外へ出て行ったが、剥ぎとられた後がザワザワ揺れていた。いろんな部分から火や血や人間の屍《しかばね》が噴《ふ》き出ていて、僕をびっくりさせたが、僕は剥ぎとられたほかの部分から何か爽《さわ》やかなものや新しい芽が吹き出しそうな気がした。僕は医《い》やされそうな気がした。僕は僕のなかに開かれたものを持って生きて行けそうだった。それで僕はそこを離れると遠い他国へ出かけて行った。ところが僕を見る他国の人間の眼は僕のなかに生き残りの人間しか見てくれなかった。まる
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