てゆく。どうも、わたしはもう還《かえ》ってゆくところを失った人間らしかった。わたしは水溜りのほとりに蹲ってしまった。両方の掌《てのひら》で頬《ほお》をだきしめると、やがて頭をたれて、ひとり静かに泣き耽《ふけ》った。ひっそりと、うっとりと、まるで一生涯の涙があふれ出るように泣いていたのだ。ふと気がつくと、あっちの水溜りでも、こちらの水溜りでも、いたるところの水溜りにひとりずつ誰かが蹲っている。ひっそりと蹲って泣いている。では、あの人たちも、もう還ってゆくところを失った人間なのかしら、ああ、では、やっぱし地球は裂けて割れてしまったのだ。ふと気がつくと、わたしの水溜りのすぐ真下に階段が見えて来た。ずっと下に降りて行けるらしい階段を、わたしはふらふら歩いて行った。仄暗い廊下のようなところに突然、目がくらむような隙間があった。その隙間から薄荷《はっか》の香《かお》りのような微風が吹いてわたしの頬にあたった。見ると、向うには真青な空と赤い煉瓦《れんが》の塀《へい》があった。夾竹桃《きょうちくとう》の花が咲いている。あの塀に添ってわたしは昔わたしの愛人と歩いていたのだ。では、あの学校の建ものはまだ残っていたのかしら。……そんな筈《はず》はなかった、あそこらもあの時ちゃんと焼けてしまったのだから。わたしのそばでギザギザと鋏のような声がした。その声でわたしはびっくりして、またふらふら歩いて行った。また隙間が見えて来た。わたしの生れた家の庭さきの井戸が、山吹の花が明るい昼の光に揺れて。……そんな筈はなかった、あそこはすっかり焼けてしまったのだから。またギザギザの鋏の声でわたしはびっくりしていた。また隙間が見えて来る。仄暗い廊下のようなところははてしなくつづいた。……それからわたしはまたぞろぞろ動くものに押されて歩いていた。わたしは腰を下ろしたかった。腰を下ろして何か食べようとしていた。すると急に何かぱたんとわたしのなかで滑《すべ》り墜《お》ちるものがあった。わたしは素直に立上って、ぞろぞろ動くものに随《つ》いておとなしく歩いた。そうしていれば、そうしていれば、わたしはどうにかわたしにもどって来そうだった。みんな人間はぞろぞろ動いてゆくようだった。その足音がわたしの耳には絶え間なしにきこえる。無数に交錯する足音についてわたしの耳はぼんやり歩き廻る。足音、足音、どうしてわたしは足音ばかりがそんなに懐しいのか。人がざわざわ歩き廻って人が一ぱい群れ集っている場所の無数の足音が、わたしそのもののようにおもえてきた。わたしの眼には人間の姿は殆ど見えなくなった。影のようなものばかりが動いているのだ。影のようなものばかりのなかに、無数の足音が、……それだけわたしをぞくぞくさせる。足音、足音、どうしてもわたしは足音が恋しくてならない。わたしはぞろぞろ動くものについて歩いた。そうしていると、そうしているうちに、わたしはわたしにもどって来そうだった。ある日わたしはぼんやりわたしにもどって来かかった。わたしの息子がスケッチを見せてくれた。息子が描いた川の上流のスケッチだった。わたしはわたしに息子がいたのを、ふと気がついた。わたしはわたしに迷わされてはいけなかったのだ。わたしにはまだ息子がいたのだ。突然わたしは不思議におもえた。ほんとに息子は生きているのかしら。あれもやっぱし影ではないのか。わたしはハッと逃げ出したくなった。わたしは跣《はだし》で歩き廻った。ぞろぞろ動くものに押されて、ザワザワ揺れるものに揺られて、影のようなものばかりが動いているなかをひとりふらふら歩き廻った。そうしていれば、そうしている方がやっぱしわたしはわたしらしかった。わたしの袖《そで》を息子がとらえた。「お母さん帰りましょう、家へ」……家へ? まだ還るところがあったのかしら。わたしはそれでも素直になった。わたしはわたしに迷わされまい。わたしにはまだ息子がいるのだ。それだのに何かパタンとわたしのなかに滑り墜ちるものがある。と、すぐわたしはまた歩きたくなるのだ。足音、足音、……無数にきこえる足音がわたしを誘った。わたしはそのなかに何かやさしげな低い歌ごえをきく。わたしはそのなかを歩き廻っている。そうしていると足音がわたしのなかを歩き廻る。わたしはときどき立どまる。わたしにはまだ息子があるのだ。わたしにはまだわたしがあるのだ。それからまたふらふら歩きまわる。わたしにはもうわたしはない、歩いている、歩いている、歩いているものばっかしだ。
 お絹の声がぷつりと消えた。僕はふらふら歩き廻っている。僕のまわりを通り越す群衆が僕には僕の影のようにおもえる。僕は僕を探しまわっているのか。僕は僕に迷わされているのか。僕は伊作ではない。僕はお絹ではない。僕ではない。伊作もお絹も突離された人間なのか。伊作の人生はまだこれ
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