イターが毀《こわ》れてしまった。石鹸《せっけん》がない。靴の踵《かかと》がとれた。時計が狂った。書物が欲しい。ノートがくしゃくしゃだ。僕はくしゃくしゃだ。僕はバラバラだ。書物は僕を理解しない。僕も書物を理解できない。僕は気にかかる。何もかも気にかかる。くだらないものが一杯充満して散乱する僕の全存在、それが一つ一つ気にかかる。教室で誰かが誰かと話をしている。人は僕のことを喋《しゃべ》っているのかしら。向側の鋪道《ほどう》を人間が歩いている。あれは僕なのかしら。音楽がきこえてくる。僕は音楽にされてしまっている。下宿の窓の下を下駄の音が走る。走っているのは僕だ。以前のことを思っては駄目だ、こちらは日毎《ひごと》に苦しくなって行く……父の手紙。父の手紙は僕を揺るがす。伊作さん立派になって下さい立派に、……伯母の声だ。その声も僕を揺るがす。みんなどうして生きて行っているのかまるで僕には見当がつかない。みんな人間は木端微塵《こっぱみじん》にされたガラスのようだ。世界は割れている。人類よ、人類よ、人類よ。僕は理解できない。僕は結びつけない。僕は揺れている。人類よ、人類よ、人類よ、僕は理解したい。僕は結びつきたい。僕は生きて行きたい。揺れているのは僕だけなのかしら。いつも僕のなかで何か爆発する音響がする。いつも何かが僕を追いかけてくる。僕は揺すぶられ、鞭打たれ、燃え上り、塞《せ》きとめられている。僕はつき抜けて行きたい。どこかへ、どこかへ。)それから僕は東京と広島の間を時々往復しているが、僕の混乱と僕の雑音は増《ふ》えてゆくばかりなのだ。僕の中学時代からの親しい友人が僕に何にも言わないで、ぷつりと自殺した。僕の世界はまた割れて行った。僕のなかにはまた風穴ができたようだ。風のなかに揺らぐ破片、僕の雑音、僕の人生ははじまったばっかしなのだ。ああ、僕は雑音のかなたに一つの澄みきった歌ごえがききとりたいのだが……。

 伊作の声がぷつりと消えた。雑音のなかに一つの澄みきったうたごえ……それをききとりたいと云って伊作の声が消えた。僕はふらふらと歩いている。僕のまわりがふらふらと歩いてくる。群衆のざわめきのなかに、低い、低い、しかし、絶えまなくきこえてくる、悲しい、やわらかい、静かな、嘆くように美しい、小さな小さな囁《ささや》きにきき入りたいのだが……。やっぱし僕のまわりはざわざわ揺れている。
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