れていた。だが、僕は探していたのだ。何かはっきりしないものを探していた。どこか遠くにあって、かすかに僕を慰めていたようなもの、何だかわからないとらえどころのないもの、消えてしまって記憶の内側にしかないもの、しかし空間から再びふと浮び出しそうなもの、記憶の内側にさえないが、嘗《かつ》てたしかにあったとおもえるもの、僕はぼんやり考えていた。
世界は割れていた。恐しく割れていた。だが、まだ僕の世界は割れてはいなかったのだ。まだ僕は一瞬の閃光を見たのではなかった。僕はまだ一瞬の閃光に打たれたのではなかった。だが、とうとう僕の世界にも一瞬の大混乱がやって来た。そのときまで僕は何にも知らなかった。その時から僕の過去は転覆してしまった。その時から僕の記憶は曖昧《あいまい》になった。その時から僕の思考は錯乱して行った。知らないでもいいことを知ってしまったのだ。僕は知らなかった僕に驚き、僕は知ってしまった僕に引裂かれる。僕は知ってしまったのだ。僕は知ってしまったのだ。僕の母が僕を生んだ母とは異《ちが》っていたことを……。突然、知らされてしまったのだ。突然?……だが、その時まで僕はやはりぼんやり探していたのかもしれなかった。叔父《おじ》の葬式のときだった。壁の落ち柱の歪《ゆが》んだ家にみんなは集っていた。そのなかに僕は人懐《ひとなつ》こそうな婦人をみつけた。前に一度、僕が兵隊に行くとき駅までやって来て黙ったまま見送ってくれた婦人だった。僕は何となく惹《ひ》きつけられていた。叔父の死骸が戸板に乗せられて焼場へ運ばれて行く時だった。僕はその婦人とその婦人の夫と三人で人々から遅れがちに歩いていた。その婦人も婦人の夫も僕は何となく心惹かれたが、僕は何となく遠い親戚《しんせき》だろう位に思っていた。突然、婦人の夫が僕に云った。
「君ももう知っているのだね、お母さんの異うことを」
不思議なこととは思ったが、僕は何気なく頷《うなず》いた。何気なく頷いたが、僕は閃光に打たれてしまっていたのだ。それから僕はザワザワした。揺れうごくものがもう鎮《しず》まらなかった。それから間もなく僕の探求が始った。僕はその人たちの家をはじめてこっそり訪《たず》ねて行った。山の麓《ふもと》にその人たちの仮寓《かぐう》はあった。それから僕は全部わかった。あの婦人は僕の伯母《おば》、死んだ僕の母の姉だったのだ。僕の母は僕が
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