ぱつと巧く隠されてしまつた。と、思ふとまた一寸顔を覗けたが、今度は立並ぶ材木の列ですつかり隠された。
材木は縦にも横にも空地一杯に積重ねられてゐた。そして、水のなかには大きな筏が止められてゐるのだつた。そのあたりに樹皮のついた丸太が水に浸されて、いくつも浮んでゐた。石段の側の石崖に、荒い格子の嵌つた薄暗い窓があつて、窓のすぐ下の土管から、ふと思ひ出したやうに水が流れて来た。菜の屑や藁が水と一緒に滑り落ちて来た。間もなく、材木の山も見えなくなると、石崖の上には藪がかぶさり、板屋根の荒屋が現れて来た。それにつづいて、貧しげな野菜畑と大きな鶏小屋があつた。薄暗い鶏小屋の窓からは随分沢山の鶏が首を覗けて動いてゐるのだつた。雄二はちよつと眼を瞠つた。しかし、鶏小屋はすぐに見えなくなつてしまつた。
むかふの方にぼんやりとT橋が薄い小さな影を現はして来た。その上に横はるH山には何時の間にか山のすぐ後の空に睡むさうな薄雲が棚引いてゐた。向側の土手はところどころに青葉を混ぜて同じやうな恰好の小家が並び、高い石崖はうねりながらT橋の方へ続いてゐるのだつた。そして、石崖の下はずつと水が干て、砂地になつてゐた。たまに、その砂地を歩いてゐる人の姿もぼんやりと眺められた。石崖の曲つて突出たところに大きな黄櫨の樹が聳えてゐた。あの大きな樹の前を過ぎて、まだ大分行かなければT橋にはならないのだらうと雄二は思つた。すると雄二は何か遙かな気持がして侘しくなつた。川の眺めにも見倦きたやうで、眼は少しぼんやりして来た。が、水の上を見てゐないと一そういけないやうな気持がした。船頭もほかの人も平気な顔をしてゆつくり落着いてゐた。
向ふから小さな舟がやつて来た。流れに溯つてゐるので棹を押してゐる人はつらさうだつた。雄二達の舟はすーと進んでその舟と擦違つてしまつた。雄二は振返つて擦違つた舟の方を暫く見てゐた。何にも積んでゐない舟なのになかなか進まなかつた。やがて、その舟が遠ざかつたと思ふと、大きな櫨の木の生えてゐる石崖のところを雄二達の舟は過ぎてゐた。すると思つてゐたよりも近くにT橋はもう見えてゐるのだつた。橋が近づくに随つて、欄杆の上にあるH山も近づいた。山の樹木が今ははつきりと見え出した。橋の向の方はキラキラ水面が光つてゐて、そちら側へ出ればまた景色は広々として来るらしかつた。
そのうちに舟はたうたうT橋の下に来た。雄二はまた顔をあげて橋の裏を眺めた。待ち兼ねてゐた橋も過ぎると、行手はまた広々とした水の上だつた。H山は向岸の屋根の上にすつかり形を現した。濃い緑の松が重なり合つてゐて、その松の一本一本は揺れながら叫びさうであつた。舟が進んで行くとH山はいよいよ正面のところをはつきり見せて来た。山の下の家並は見る間に早く移り変つて行くのに、山はなかなか終らうとしなかつた。たうとう雄二はそれで山のない方の岸へ目をやつた。すると、堤は何時の間にか低くなつてゐて、家も疎な、広々とした眺めだつた。別荘らしい庭のある家や、草原や何にもない白い路が緩く入替つて現れた。それから電信棒がしつこく堤に添つて並んでゐた。
雄二は何時までも同じところを進んでゐるやうな気持がして、次第に耐へがたくなつた。ふと気がつくと、もうH山は遠のいてゐた。しかしもうどちらの岸が自分の家の方角なのか、雄二はすつかりわからなかつた。
「恰度潮時はいいだらうな」と云ふ父の声が遠くでぼんやり聞えた。すると船頭が何か応へたらしかつたが、雄二ははつきり憶えなかつた。急に冷たい風が雄二の頬を掠めた。「あ、雄二の顔、真青」と、その時母が喫驚したやうに注意した。雄二はぐつたり頭を屈めて、ちぢこまつてしまつた。
やがて、舟が川岸に着けられると、雄二は父に抱かれて陸に下ろされた。下駄を穿かされたかと思ふと、ふらふら目が昏んで、雄二は地面に屈んだ。そして遽かに吐気がして来た。雄二はぐつと涙が鼻の方へ流れて来た。雄二は微かな声をあげて泣き出した。
「舟に酔つたのだ、すぐなほるよ」と、父が宥めて呉れた。そして、何時の間にか小さな置座を持つて来てくれた。雄二がその上に腰を下すと、もう段々楽になつたが、何だかがつかりして不思議だつた。
間もなく船頭が俥を傭つて来た。雄二は姉に連れられて、さきに家へ帰ることになつた。
「もう大丈夫」と、菊子が訊ねると雄二は大きく頷いた。父も母も兄達もみんなが俥を見送つた。俥は用心して緩々と走つた。雄二はもうすつかり元気になつてゐた。俥は長い長い橋を渡つてゆきむかふに海が見えた。
底本:「定本原民喜全集 1」青土社
1978(昭和53)年8月1日発行
初出:「文芸汎論」
1939(昭和14)年9月号
入力:海老根勲
校正:Juki
2004年8月24日作成
2007年7月9日修正
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