でも生じたのか、頻りに青い小さな羽虫のやうな焔がちらついてゐた。それは歩くたびに煩いほどつきまとつて来た。家に着くと、私たちは甥の枕頭に坐り込んだ。甥はいつのまにか、綺麗な縞の絹の着物を着せられ、禿げ上つた頭と細い顔は陶器のやうに青ざめてゐた。鼻腔には赤く染まつた綿が詰められてゐた。枕頭の金盥は吐くもので真赤だつた。それでも甥はパツチリと黒い眼をあけ、ときどき苦しげに悶えた。
「がんばれよ」と次兄は側から低い声で励ました。甥の枕頭には一枚の葉書が置いてあつた。それはあのとき一緒に逃げた友達の親許から寄来された死亡通知であつた。みんなはそつとその葉書をみて押黙つた。
「際の際まで、意識は明瞭だといふことです」と嫂は声を潜めた。夜が更けてゐたので、私たちは一まづ二階へ引あげた。私はいつ呼び起されるかしれないつもりで、夜具に潜つた。陰惨な光景にはあきあきするほど遭遇してゐたが、さつき見た甥の姿は眼に沁みるのだつた。だが、階下の方はひつそりとして何の変つた気配もなかつた。そのまま夜は明けて行つた。朝になると、みんなは吻とした。何だか助かつたのではないかといふ気持が支配した。事実、甥は持ちこたへて行くらしかつた。急変がないのをみて、廿日市の長兄たちも一まづ帰つて行つた。
危篤状態は過ぎたらしかつたが、まだ甥は絶えず頭を氷で冷やしづづけ、医者は毎日注射をつづけた。嫂はせつせと村の小路を走り廻つて氷や牛乳や卵を求め看護しつづけた。そこの家を吹飛ばしさうな、ひどい颱風が訪れたときも、甥は寝たままでまだ動けなかつた。
長雨や嵐の陰惨な時期がすぎると、やがて秋晴れの好天気がつづいた。村では久振りに里祭が行はれ、すぐ前の田の向に見える堤の上を若衆が御輿を担いで騒ぎ廻つた。だが、私たちは空腹の儘その賑はひを見送つてゐた。その祭りの賑はひの最中のことであつた。階下で急に甥の泣き叫ぶ声がして、嫂の烈しく罵る声がした。あまり激越な調子なので何事がおこつたのかとおもつた。
「死んだ方がよかつた」と甥は私がやつて来たのを見ると、また抗議するやうに低い声で呟いた。
「くそ意気地なし。誰のお蔭で助かつたのか。ひとが一生懸命看護してやつたのも忘れて」と嫂はまだ興奮してゐる。
「どうしたのです」
「今さき村の子供がここを通りながらこちらを覗き込んで『禿がゐる、禿がゐる』と罵つたのです」
「悪い子供だな。学校へ云つてやるといい」
「禿が一たい何ですか。男でも女でもこんど禿になつたのはあたりまへのことで、恥でも何でもない。禿と云はれた位で、それ位のことで死にたいとは……その意気地なしが情ない」
甥はもう何も云はなかつたが、私は病後の甥がこんなに興奮していいのかと心配だつた。
学童疎開に行つてゐた二人の弟たちが還つて来ると、狭い家のうちはごつた返し、暮しは一層苦しくなつてゐた。甥はもうかなり元気になつてゐたが、どうかすると階下では物凄い衝突がもちあがつた。平素はおとなしい性質なのに、喧嘩となればこの甥はねちねちしてゐた。甥は炬燵にもぐつて、英語のリーダーなど勉強しだした。大病のあとだし、一年位は学校を休ませた方がいいだらうとみんなは云つてゐたが、年末頃になると、禿げてゐた頭に少しづつ髪の毛が顕れだした。
年が明けると、私はいつまでもそこの家に厄介になつてゐるのも心苦しく、頻りに上京のことを考へてゐた。甥は既にその頃から広島まで学校に通ひだした。八幡村から広島の郊外まで往復すれば、元気な男でさへ、かなり疲労する。電車までの路が一里あまり、電車に乗つてからも、それは決して楽なことではなかつた。私は甥がよくも続けて通学できるのに驚かされた。甥は毎日、軍から払ひ下げになつた、だぶだぶの服と外套を着て、早朝出かけては日没に戻つて来るのだつた。私はその年の春、漸く八幡村を立去ることが出来たが、その後、上京してからも、あの甥は元気になつたのかしらと思ひ出すことが多かつた。私が甥の元気な姿を再び見たのは、翌年の正月であつた。その時、次兄は広島の焼跡にバラツクを建てゝ恰度八幡村から荷を運んで来たばかりのところだつた。あたりはまだごつた返してゐた。甥はだぶだぶの軍服を着て、シヤベルで何かとりかたづけてゐた。私の来訪もあまり気にならない位、彼は忙しさうに作業に熱中してゐた。
私がこの頃になつて、甥のことなど書いてみる気になつたのは、何か私の現在の気持の底に、生き運といふものを探し求めてゐるからでもある。甥の頭髪はもとどほり立派に生え揃つた。あの時、禿になりながら、その後立派に助かつてゐる人は甥ばかりではなかつた。槇氏もやはりその一人である。彼は大手町で遭難し火のまはるのが急速だつたため、細君を助け出すことも出来ず、身一つで河原に避れた。その後、髪の毛が脱けだすと、彼は田舎の奥へ引
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