たこともあるのだが、荒々しいものの、まるで感じられない人柄であった。その、いつも妻の体を調べている指さきが、いま彼の背を綿密に打診していた。すると、かすかに甘えたいような魔術が読みとられた。津軽先生はペンを執って、再検査の用紙の胸部疾患の欄に二三行書込んで行った。「脚気《かっけ》の気味もあるようですね」と先生は呟いた。
診察がすむと、彼はぐったりして、廊下の方へ出て行ったが、眼のまえの空間が茫と疼く疲労感で一杯になっていた。それから、妻の病室へ戻って来ると、パッと何か渦巻く色彩があった。いま妻のベッドの脇《わき》には、近所の細君が二人づれで見舞に来ていた。テーブルの上に菊の花が乱れた儘《まま》になっていた。いつもくすんだ身なりをしている隣組の女たちの、こうした、たまの盛装が、この部屋の空気を落着かなくしているのだろうか。……「ひどい南風ですね」と細君のひとりは窓の方を眺めながら云った。そういえば、リノリウムの廊下まで、べとべとと湿気ていたし、ガラス窓の外は茫と白くふくれ上って揺れかえしているのであった。見舞客が帰って行くと、妻はぐったりした顔つきで、枕に頭を沈めた。その頬《ほお》はかすかに火照っているようであった。
その南風が吹き募ると、海と空が茫と脹《ふく》らんで白く燃え上るようであった。どうかすると真夏よりも酷《きび》しい光線で野の緑が射とめられていた。落着のないクラスの生徒たちは、この風が吹きまくるとき、ことに騒々しかった。彼はときどき教壇の方から眼を運動場のはてにある遠い緑の塊《かたま》りに対《む》けていた。舞上る砂埃《すなぼこり》に遮られて、それは森とも丘とも見わけのつかぬ茫漠とした眺めではあったが、あの混濁のなかに一つの清澄が棲《す》んでいて、それが頻《しき》りに向うから彼の魂を誘っているようだった。すぐ表の坂を轟々《ごうごう》と戦車が通りすぎて行った。すると、かぼそい彼の声は騒音と生徒の喚《わめ》きで、すっかり捩《も》ぎとられてしまうのであった。
その風が鎮《しず》まると、漸《ようや》く秋らしい青空が眺められた。澄んだ午後の光線は電車の中にも流れ込んでいた。痩《や》せ細った老人が萎《しな》びたコスモスの花を持って、恐しい顔つきのまま座席に蹲《うずくま》っている。ある小駅につづく露次では、うず高くつみ重ねられた芋俵をめぐって、人が蟻《あり》のように動いていた。よじくれた榎《えのき》と叢《くさむら》のはてに、浅い海が白く光っていた。そうした眺めは、彼にとってはもう久しく見馴《みな》れている風景ではあったが、なぜか近頃、はっきりと輪郭をもって、小さな絵のように彼の眼の前にとまった。その絵を妻に頒ち与えたいような気持で、病院の方へ足を運んでいることがあった。
胸の奥に軽く生暖かい疼きを感じながら、彼は繊細なものの翳《かげ》や、甘美な聯想《れんそう》にとり縋《すが》るように、歩き廻っていた。家と病院と学校と、その三つの間を往《い》ったり来たりする靴が、溝《みぞ》に添う曲り角を歩いていた。そこから坂道を登って行けば病院だったが、その辺を歩いている時、ふと彼の時間は冷やかな秋の光で結晶し、永遠によって貫かれているような気がした。それから、病院の長い長い廊下や、(それは夢のなかの廊下ではなかったが)大概、彼が行くときか帰りかにきっと出逢《であ》う中風患者の姿、(冷たい雨の日も浴衣《ゆかた》がけで何やら大袈裟《おおげさ》な身振りで、可憐《かれん》に片手を震わせていた)合同病室の扉の方から喰《は》み出している痩せた女の黄色い顔、一つの角を曲ると忽ち轟然《ごうぜん》とひびいて来る庖厨部《ほうちゅうぶ》の皿の音、――そうした病院の風景を家に帰って振返ってみると、彼には半分夢のなかの印象か、ひそかに愛読している書物のなかにある情景のようにおもえた。
だが、彼の妻が白い寝巻の上にパッと派手な羽織をひっかけ、「その辺まで見送ってあげましょう」と、外の廊下の曲り角まで一緒について来て、「ここでおわかれ」と云った時、彼はかすかに後髪を牽《ひ》かれるようなおもいがした。そこには、妻の振舞のあざやかさがひとり取残されていた。
ひとりで、附添も置かず、その部屋で暮している妻は、彼が訪れて行くたびに、何かパッと新鮮な閃《ひらめ》きをつたえた。
「熱はもうすっかり退《さ》がりました。津軽先生が、この薬とてもよく効《き》くとおっしゃるの」そう云って黒い小粒の薬を彼に見せながら、「そのうち気胸《ききょう》もしてみようかとおっしゃるの、でも、糖尿の方があるので……」と、妻は仔細《しさい》そうな顔をする。「先生も尿の検査にはなかなか骨が折れるとおっしゃるの」
彼は妻の口振りから津軽先生の動作まで目に浮ぶようであった。……明るい窓辺《まどべ》で、静かにグラスの目盛を測っている津軽先生は、時々ペンを執って、何か紙片に書込んでいる。それは毎日、同じ時刻に同じ姿勢で確実に続けられて行く。と、ある日、どうしたことかグラスの尿はすべて青空に蒸発し、先生の眼前には露に揺らぐコスモスの花ばかりがある。先生はうれしげに笑う。妻はすっかり恢復《かいふく》しているのだった。
「わかったの、わかったのよ」
妻は彼が部屋に這入って行くと、待兼ねていたように口をきった。
「もうこれからは、独《ひと》りで病気の加減を知ることが出来そうよ、どうすればいいかわかって」そう云って妻は大きな眼をみはった。
「尿を舐《な》めてみたの、すると、とてもあまかった。糖がすっかり出てしまうのね」
妻はさびしげに笑った。だが、笑う妻の顔には悲痛がピンと漲《みなぎ》っていた。この病院でも医者はつぎつぎに召集されていたし、津軽先生もいつまでも妻をみてくれるとは請合えなかった。三カ月の予定で糖尿の療法を身につけるため入院した妻は、毎日三度の試験食を丹念に手帳に書きとめているのだった。
ある午後、彼の眼の前には、透きとおった、美しい、少し冷やかな空気が真二つにはり裂け、その底にずしんと坐っている妻の顔があった。
「この頃は、毎朝、お祈りをしているの、もう祈るよりほかないでしょう、つまらないこと考えないで一生懸命お祈りするの」
そう云って妻はいまもベッドの上に坐り直り、祈るような必死の顔つきであった。すると、白い壁や天井がかすかに眩暈《げんうん》を放ちだす、あの熱っぽいものが、彼のうちにも疼《うず》きだした。彼はそっと椅子を立上って窓の外に出る扉を押した。そのベランダへ出ると、明るい※[#「左部はさんずい、中部は景、右部は頁」、第3水準1−87−32、30−7]気《こうき》がじかに押しよせて来るようだった。すぐ近くに見おろせる精神科の棟《むね》や、石炭貯蔵所から、裏門の垣《かき》をへだてて、その向うは広漠《こうばく》とした田野であった。人家や径《みち》が色づいた野づらを匐《は》っていたが、遮《さえぎ》るもののない空は大きな弧を描いて目の前に垂《た》れさがっていた。
…………………………
「こんどおいでのとき聖書を持って来て下さい」
妻はうち砕かれた花のような笑《え》みを浮べていた。……家へ戻ってから、ふと古びた小型のバイブルをとり出してみて、彼はハッとするのだった。それは彼が少年の頃、亡《な》くなった姉から形見に貰《もら》ったものであった。二十年も前のことだが、死ぬ前、姉は県病院に入院していた。二度ばかり見舞に行って、それきり姉とは逢えなかったのだが、この姉の追憶はいつも彼を甘美な少年の魂に還《かえ》らせていた。そういえば、彼が妻の顔をぼんやり眺《なが》めながら、この頃何かしきりに考えていたのはそのことだったのだろうか。静かな病室のなかで、うっとりと、ふと何か口をついて、喋《しゃべ》りたくなりながら、口には出なかったのは、そのことだったのだろうか。
真昼の電車の窓から海岸の叢《くさむら》に白く光る薄《すすき》の穂が見えた。砂丘が杜切《とぎ》れて、窪地《くぼち》になっているところに投げ出されている叢だったが、春さきにはうらうらと陽炎《かげろう》が燃え、雲雀《ひばり》の声がきこえた。その小景にこころ惹《ひ》かれ、妻に話したのも、ついこのあいだのようだったが、そこのところが今、白い穂で揺れていた。薄は気がつくと、しかし沿線のいたるところにあった。電車の後方の窓から見ると、遙《はる》かにどこまでも遠ざかってゆく線路のまわりにチラチラと白いものが閃《ひらめ》いた。ある朝、学校へ出掛けて行く彼は、電車の窓に迫って来る崖《がけ》の上に、さわさわと露に揺れる丈《たけ》高い草を刈り取っている女の姿を見た。崖下の叢もうっすらと色づいていた。それから間もなく、田のあちこちが黒いおもてを現して来た。刈あとの切株のほとりに、ふと大きな牛の胴を見ることもあった。時雨《しぐれ》に濡《ぬ》れて、ある駅から乗込んだ画家は、すぐまた次の駅で降りて行った。そうした情景を彼もまた画家のような気持で眺めるのだった。
それから、ある午後、彼が教室で授業していると、ふと窓の外の方があやしく気にかかった。リーダーを持ったまま、彼は硝子窓《ガラスまど》の方へ注意を対《む》けていた。ひょろひょろの銀杏《いちょう》の梢《こずえ》に黄金色の葉がヒラヒラしているのだ。あ、あれだろうか、……何とも名ざし出来ない、美しい透明な世界がすぐそこにあるようだし、それはひっそりととおりすぎてゆくのであった。
彼はそっと窓の方の扉をあけて、いつものベランダに出てみた。冷たい空気が頬にあたり、すぐ真下に見える鈴懸《すずかけ》の並木がはっと色づいていた。と、何かヒラヒラするものがうごき、無数の落葉が眼の奥で渦巻いた。いま建物の蔭《かげ》から、見習看護婦の群が現れると、つぎつぎに裏門の方へ消えて行くのだった。その宿舎へ帰って行くらしい少女たちの賑《にぎ》やかな足並は、次第にやさしい祈りを含んでいるようにおもえた。と、この大きな病院全体が、ふと彼には寺院の幻想となっていた。高台の上に建つこの大伽藍《だいがらん》は、はてしない天にむかって、じっと祈りを捧《ささ》げているのではないか。明るい空気のなかに、かすかな靄《もや》が顫《ふる》えながら立罩《たちこ》めてくるようだった。やがて彼は病室へ戻って来た。すると、妻はいままで閉じていた眼をパッと見ひらいた。「行ってみる時刻でしょう」と妻は愁《うれ》わしげに云う。その日、津軽先生から話があるというので、外来患者控室の前で逢うことになっていた。
彼は廊下の椅子に腰を下ろして待った。約束の時刻は来ていたが先生の姿は見えなかった。すぐ目の前を、医者や看護婦や医学生たちが、いく人もいく人も通りすぎて行った。やがて廊下はひっそりとして、冷え冷えして来た。めっきり暗くなった廊下で彼はいつまでも待った。よくない予感がしきりにしていたが、そうして待たされているうちに、もう彼は何も考えようとはしなかった。ただ、この世の一切から見離されて、極地のはてに、置きざりにされたような、暗い、冷たい、突き刺すような感覚があった。
「遅くなりました」ふと目の前に津軽先生の姿が現れた。
「召集がかかりましたので」先生は笑いながら穏やかな顔つきであった。急に彼は眼の前が真暗になり、置きざりにされている感覚がまたパッと大きく口を開いた。誰か女のつれが向うの廊下からちらとこちらを覗《のぞ》いたようであった。
「インシュリンのことでしたね、あの薬はあなたの方では手に這入《はい》りませんか」
「まるで、あてがないのです」
彼は歪《ゆが》んだ声で悲しそうに応《こた》えた。その大きな病院でも今は容易にそれが得られなかったが、その注射薬がなければ、妻の病は到底助からないのであった。
「そうですか、それでは僕が出て行ったあとも、引きつづいて、ここへ取寄せるように手筈《てはず》しておきましょう」
そういって先生はもう立去りそうな気配であった。彼はとり縋って、何かもっと訊《たず》ねたいことや、訴えたいものを感じながらも、押黙っていた。
「それでは失礼
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