畳んだ便箋《びんせん》に鉛筆で細かに、こまかな心づかいが満たされていた。(あなたがしょんぼりと廊下の方へ出てゆかれた後姿を見送って、おもわず涙が浮びました。体の方は大丈夫なのでしょうね、余計な心配をかけて済みませんでした、……)努めて無表情に読過そうとしたが、彼は底の方で疼《うず》くようなものを感じた。
こうした手紙をもらうようになったのか――それは彼にとっては、やはり新鮮なおどろきであった。妻は入院の費用にあてるため、郷里に置いてある箪笥《たんす》を本家で買いとってもらうことを相談した。彼がさびしく同意すると、妻は寝たままで、一頻《ひとしき》り彼の無能を云うのであった。十年前嫁入道具の一つとして郷里の土蔵に持込まれたまま、一度も使用されず、その箪笥がひと手に渡るのは彼にとっても身を削《そ》がれるような気持だった。だが、身の落目をとりかえすため奮然として闘《たたか》うてだてが今あるのだろうか。彼は妻の言葉を聞きながら、薄暗くなってゆく窓の外をぼんやり眺《なが》めていた。おぼろな空のむこうに、遙《はる》かな暗い海のはてに、火を吐いて沈んでゆく艨艟《もうどう》や、熱い砂地に晒《さら》されている白骨の姿が、――それは、はっきりした映像としてではなく、何か凍《い》てついた暗雲のようにいつも心を翳《かげ》らせている。それから、何気ない日々のくらしも、彼の周囲はまだ穏かではあったが、見えない大きい力によって、刻々に壊《こわ》されているのではないか。どうにもならない転落の中間に、ぽつんと放り出された二人ではないか。そうおもいながら、あのとき彼は妻にかえす言葉を喪《うしな》っていたのだが……。書斎の椅子にぐったりとして、彼は女中が持って帰った妻の手紙を、その小さな紙片をもとどおりに折畳んだ。悲壮がはじまっていた。そしてそれは、ひっそりとしているのであった。
その年の秋も、いらだたしい光線のなかに雨雲が引裂かれていた。そうした、ある落着かない気分の夕刻近く、彼は妻に附添ってその大きな病院の門をくぐった。二階の廊下をいく曲りして静かな廊下に出たところに一号室があった。その部屋の窓からは、遙かに稲田や人家が展望された。前にいた人が残して行ったらしい大きな古びた財布《さいふ》が片隅《かたすみ》にあった。一わたり部屋を見まわすと、すぐに妻はベッドに臥《ふ》さった。はじめて落着く場所にかえ
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