件を思ひ出して、滅茶苦茶に走り出した。

 やがて店へ戻ると、案の定、藤一郎は主人から叱られた。どうして主人には彼が道草食ってゐるのがわかるのか、藤一郎にはわからなかったが、「君は一体此頃ぼやっとしてるぞ。」と云はれた時にはギョクッとした。さっきまで目が眩むほど美しい女のことを考へてたのだが、さう云ふことまで主人にはわかるのかしら。自分の不甲斐なさを思ふと、少しづつ慄へる唇を藤一郎は努めて慄はせまいとした。恰度いいことに、藤一郎はまた用件を吩《いひつ》かった。今度はしくじるまいと、藤一郎は自転車に燈をつけた。
 幾台も自動車が彼を追越した。何だ、ボロ自動車。や、今度は素適な奴が抜いた。あ、あの自動車に乗ってる男、女の肩へ手を掛けてゐた。その次は、何だまたボロ自動車か。また来た、ボロ自動車。……何時の間にか藤一郎は自分が立派な自動車に乗ってゐるつもりでペダルを踏んだ。口笛が、ハーモニカのかはりに吹かれて、雑沓に紛れた。ハーモニカを吹いて、夜の田舎の海岸を走ってゐるやうな気もした。実際のところ、藤一郎は何時の間にか雑沓を抜けて、豪華な邸宅地の滑らかな路に出てゐた。霧がハンドルにかかって、眼
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