里半の路が控へてゐた。ことに夜など、川に沿つて戻る路が、――それは人生のやうに佗しかつた。橋のところに見える灯を目あてに、いくら歩いて行つても、行つても、灯は彼方に遠ざかつてゆくやうにおもへることがあつた。その橋のところまで辿りつくと、とにかく半分戻つたといふ気持がする。私はH町まで行つて戻るたびに、膝の関節が棒のやうになり、まともに坐ることが出来ないのであつた。
雲
刈入れの済んだ後の田は黒々と横はつてゐたが、夜など遅くまで、その一角で火が燃やされてゐることもあつたし、そこでは、絶えず忙しげに働いてゐる人の姿を見かけるのであつた。
私は二階の縁側に出て、レンズをたよりに太陽の光線で刻みタバコに火を点けようとしてゐた。雲の移動が頻りで、太陽は滅多に顔をあらはさない。いま、濃い雲の底から、太陽の輪郭が見えだしたかとおもふと、向の山の中腹に金色の日向がぽつと浮上つてくるのだが、こちらの縁さきの方はまだぼんやりと曇つてゐる。やがて雲に洗はれた太陽が、くつきりとこちらに光を放ちだしたと思ふのも束の間で、すぐに後からひろがつて来る雲で覆はれてしまふ。私は茫然として、レンズを持てあますのであつた。が、さうした折、よく、ひよつくりと、H町の長兄はここへ姿を現すのであつた。彼は縁側に私と並んで腰を下ろすと、
「一体、どうするつもりなのか」と切りだす。
罹災以来、私と一緒に次兄の許で厄介になつてゐた妹は、既にその頃、他所へ立退いてしまつたが、それと入れ替つて、次兄の息子たちが、学童疎開から戻つて来た。いつまでも私が、ここでぶらぶらしてゐることは、もう許されないのであつた。だが、一たいどうしたらいいのか、私にはまるで雲を掴むやうな気持であつた。
路
降りしきる雪が、山のかなたの空を黒く鎖ざしてゐたが、海の方の空はほの明るかつた。私はその雪に誘はれてか、その雪に追ひまくられてか、とにかく、またいつもの路まで来てゐた。
年が明けても、飢ゑと寒さに変りはなく、たまたま読んだアンデルセンの童話も、凍死しかかる昆虫の話であつた。どこかへ、私も脱出しなければ、もう死の足音が近づいて来るやうな気がした。広島の廃墟をうろつく餓死直前の乞食も眼に泌みついてゐたが、先日この村をとぼとぼと夏シヤツのまま歩いてゐた若い男の姿――その汚れた襯衣や黝ずんだ皮膚は、まだ原子爆弾直後の異臭が
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