。何でも買ふなら今のうちだよ。黒柿の素敵な箪笥ぢや。うんにや、楓の木ぢやつたかな」と、彼は相変らず阿房めいた調子を混じへながら、巧みに話をもちかけてゆくのであつた。
脅迫
私はひどい下痢に悩まされながら、二階でひとり寝転んでゐた。すると、階下の縁側のところに誰だか近寄つて来る足音がした。
「今晩は、今晩は、森さんはここですかいの」その声ははじめから何か怨みを含んでゐるらしい調子であつたが、どうしたわけか、嫂が返事をするのが、少し暇どつてゐた。「森さん、森さん」と、相手の声はもう棘々してゐたが、やがて嫂が応対に出たらしい気配がすると、
「なして、あんたのところは当番に出なかつたのですか」と、いきなり嚇と浴せかけるのであつた。
国民学校の校舎が重傷者の収容所に充てられ、部落から毎日二名宛看護に出ることになつてゐた。が、嫂はいま、死にさうになつてゐる息子の看病に附ききりだつたし、次兄も火傷でまだ動けない躰だし、妹はその頃、広島へ行つてゐた。……何か弁解してゐる嫂の声はききとれなかつたが、激昂してゐる相手の声は、あたり一杯に響き亘つた。
「ええツ! 義務をはたさない家には配給ものもあげやせんからの」
と、とうとう今はそんなことまで呶鳴り散らしてゐる。その声から想像するに、相手はかなりの年配の男らしかつたが、おのれの声に逆上しながら、ものに脅えてゐるやうな、パセチツクなところもあつた。それは、抑制を失つた子供の調子であつた。やがて、その声もだんだん低くなり、まだ何か呟いてゐるらしかつたが、それもぴつたり歇んでしまつた。遠ざかつてゆく足音をききながら、私はその人柄を頭に描き、何となくをかしかつた。
だが、この事件は、決して笑ひごとではすまなかつた。それでなくても、罹災者の弱味をもつ私たちは、その後は戦々兢々として、村人の顔色を窺はねばならなかつた。
嫂は路傍で、村人の会話の断片を洩れ聴きして戻つて来た。
「さうすると、広島の奴等はやがてみんな飢ゑ死にか」
「飢ゑ死にするだらうてえ」
その調子は、街の人間どもが、更に悲惨な目に陥ることを密かに願つてゐるやうだつた、と嫂は脅えるのであつた。
「上着のお礼に芋をやると約束しておきながら、とるものばかりさきにとつておいて、くれた品はたつたこれだけ」と、妹もこの辺の百姓のやりかたに驚くのであつた。
私も、その村の人
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