「ああこんな暮しはもう早く打切りましょう。私は郷里へ帰りたくなった」と切実な声で呟いた。すると彼にはすべてがすぐに了解できるようだった。一つの時期が来たのだった。病妻の看護のために彼の家に来ていてくれた義母は、今はもう娘のためにするだけのことは為《な》し了《お》えていたのだ。年老いた義母には郷里に身を落着ける家があるのだ。急に彼もこの家を畳んで、広島の兄のところへ寄寓《きぐう》することを思いついた。すると彼には空白のなかに残されている枯木の姿が眼に甦《よみがえ》って来た。それは先日、野菜買出しのため大学病院の裏側の路を歩いていた時のことだった。去年彼の妻がその病院に入院していたこともあり、感慨の多い路だった。薄曇りの空には微熱にうるむ瞳《ひとみ》がぼんやりと感じられた。と、コンクリートの塀《へい》に添う並木の姿が彼の眼にカチリと触れた。同じ位の丈《たけ》の並木はことごとく枯枝を空白に差し伸べ冷え冷えと続いているのだ。それを視《み》ているとたちまち悲しみが彼の顔を撫《な》でまくるような気持がした。が、もっと深い胸の奥の方では静かに温かいものがまだ彼を支《ささ》えているようにおもえた。
「もう広島に行ったら苦役に服するつもりなのです」と、彼は東京からやって来た義弟に笑いながら話した。彼は郷里の街が今、頭上に迫って来る破滅から免れるだろうとは想像しなかった。そこへ行けば更にもっと、きびしい鞭《むち》や苛酷《かこく》な運命が待ち構えているかもしれない。だが、殆ど受刑者のような気持で、これからは生きているばかりなのだろうと思った。ある日、彼は国道の方から路を曲って、自分の家の見えるところを眺めた。叢《くさむら》の空地《あきち》のむこうに小さな松並木があって、そこに四五軒の家が並んでいる。あの一軒の家のなかには、今もまだ病妻の寝床があって、そして絶えず彼の弱々しい生存を励まし支えていてくれるような気がするのだった。
 引越の荷は少しずつ纏《まと》められていた。ある午後、彼は銀座の教文館の前で友人を待っていた。眼の前を通過する人の群は破滅の前の魔の影につつまれてフィルムのように流れて行く。彼にとって、この地上の営みが今では殆ど何のかかわりもないのと同じように、人々の一人一人もみな堪えがたい生の重荷を背負わされて、破滅のなかに追いつめられてゆくのだろうか。暗い悲しい堪えがたいものは、一人一人の歩みのなかに見えかくれしているようだった。と不意に彼の眼の前に友人が現れていた。社用で九州へ旅行することになった友は、新しい編上靴をはいていて、生活の意欲にもえている顔つきなのだ。だが、郷里へ引あげてしまえば彼はもう二度とこの友とも逢《あ》えないかもしれないのだった。
「何だ、しっかりしろ、君の顔はまるで幽霊のようだぜ」
 友は彼の肩を小衝《こづ》いて笑った。と、彼も力なく笑いかえした。彼は遠いところに、ひそかな祈りを感じながら、透明な一つの骨壺を抱えているような気持で、青ざめた空気のなかに立ちどまっていた。

(昭和二十六年五月号『女性改造』)[♯地より2字上げ]



底本:「夏の花・心願の国」新潮文庫、新潮社
   1973(昭和48)年7月30日初版発行
入力:tatsuki
校正:林 幸雄
2002年1月1日公開
2003年5月21日修正
青空文庫作成ファイル:
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