幼年時代の追憶を描いてゐた。その頃私の書くものは殆ど誰からも顧みられなかつたのだが、ただ一人、その貧しい作品をまるで狂気の如く熱愛してくれた妻がゐた。その後私は妻と死別れると、やがて広島の惨劇に遭つた。うちつづく悲惨のなかで私と私の文学を支へてゐてくれたのは、あの妻の記憶であつたかもしれない。そのことも私は「忘れがたみ」として一冊は書き残したい。
 そして私の文学が今後どのやうに変貌してゆくにしろ、私の自我像に題する言葉は、
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死と愛と孤独
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恐らくこの三つの言葉になるだらう。……十数年も着古した薄いオーバーのポケツトに両手を突込んで、九段の濠に添ふ夕暮の路を私はひとりとぼとぼ歩いてゐる。



底本:「日本の原爆文学1」ほるぷ出版
   1983(昭和58)年8月1日初版第一刷発行
初出:「群像」
   1949(昭和24)年4月号
入力:ジェラスガイ
校正:門田裕志
2002年7月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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