されて無理矢理に一人づつ車上に積込まれて行く。が、たちまち人々の流れはそんな光景を黙殺して露路から露路へ入込んで行く。露路から露路へ、僕も乞食のやうな足どりで歩いてゐる。戦災と飢ゑと宿なしがいたるところに流れてゐる。ぞろぞろと人波は向ふの方からもやつて来る。
 しかし、どうかすると、僕は何かはつとする。たしかに、ダイヤモンドのやうなものが、樹木の多い露路の人混みのなかから、たしかに、こちらを射てゐる。あれは一たい何なのだらうか。なにものが僕を射るというのであらうか。それは何か思ひちがひのやうにも思へるのだが、だが、たしかに今も地上にはそんな美しいものが存在してゐるのかもしれない。
 僕は甥から部屋を早く立退いてくれと催促されてゐた。近いうちに彼は友人を一人連れて帰るので、どうしてもそれ迄に僕にここを出てくれと云ふのだつた。初めの約束もあつたし、僕はこの部屋に移つた時からも絶えず貸間はさがしてゐた。週に二度出掛けて仕事を貰つて来る出版社の人々にも極力頼んでみた。できるかぎり僕の数少ない知人から知人をめぐつて部屋のことを哀願してはゐた。が結局、金を持つてゐない僕にとつて、殆どそれは絶望的といふよりほかなかつた。どうかすると、僕は自分の部屋でもないこの部屋に(もつとも、さうでもするより他はなかつたのだが……)うつかり安定感を抱きかけてゐた。しかし、甥の要求の手紙は度重なり、その調子もだんだん激越になつてゐた。僕はそろそろ逃亡の準備をしておかねばならなかつた。
 ある日、たうとう甥はこの部屋に戻つて来た。学生服の甥は部屋の障子をあけると、黙つて廊下の外に立ちどまつてゐた。僕はその顔を見た瞬間はつとして、あ、これはもう駄目だな、と思つた。それはもう顔とも云へない位、怒りにはち切れさうな顔だつた。こんな風な顔なら、僕にはいくつも思ひあたることがあるのだ。甥は廊下の外に立つてゐるもう一人の学生服を顧みて、「はいれよ」と云つた。友人らしいその男は部屋に入つて来ると、僕に軽く会釈した。僕は甥に何とか言葉を掛けようと思つてもぢもぢした。だが、甥の顔の筋肉は硬直してピリピリ痙攣してゐた。
「もう二三日待つてくれないか、とにかくもう二三日」僕は漸くこれだけ云ふと、やがてその部屋を出て行つた。いや、僕が部屋を出たといふより、痙攣が僕をあの部屋から押出したのだ。僕は密集した軒の小路を抜けて、広いアスフアルトの道路へ出た。道路の上の空はピンと胸を張つて駅のガードの方へ一つの意志の如くつづいてゐる。ふらふらと僕はいつのまにか駅の前の雑沓を歩いてゐた。前から二三度僕の意識に浮んだことのある土地会社の方へ足は向いてゐた。袋路を入つて、その扉の前に僕は立つた。僕が扉を押して入ると、狭い土間に老婆が一人腰掛けてゐた。
「部屋ですか、この付近にあるのですよ、アパートの二階の四畳半ですが、今日も一人見に行かれて流場が少し暗いといつて断られましたが……」
「その流場には水道もあるのですか」僕は妙なことを訊ねたが老婆が頷いたので何か吻として、権利金のことを訊ねた。
「一万といふことですが、係の人が今留守ですから明日もう一度おいでになりませんか」
 一万円ときいて、僕はかねて勤先の出版屋へ交渉中の前借の金額を思つた。それは恰度、一万円であつた。それだけの金が借れると、それだけが僕にとつて使ふことのできる最後の金に違ひなかつた。
 部屋に戻つてみると、そこら中が甥の荷でごつた返しになつてゐたが、今、部屋には甥も友人もゐなかつた。机の上の紙片を見て僕ははつとした。
〈三日ほど待ちます 僕たちは三日間友人のところへ行つてゐます必ず立退いて下さい 以上〉
 圧力はやはり僕をここから弾き出さうとしてゐるのだ。これは僕にとつて、単なる甥の拒否ではなかつた。……翌日は嵐にでもなりさうな、奇妙にねつとりした、だらだら雨の日だつた。僕が土地会社を訪れると、係の人はゐた。そのブローカーらしい男は、すぐに貸間の条件についてごたごた話しだした。それから、とにかく一度ごらんになつては、と僕にすすめた。そこの小僧に案内してもらふことになつた。僕と一緒に外へ出た小僧は傘もささないで雨のなかをすたすた歩いて行つた。彼は僕を甥の下宿のある露路の方へ連れて行く。が、その一つ手前の角まで来ると、横へ曲つて助産婦の看板の出てゐるところまで来た。そこがアパートだつたのだ。僕はその時までそこにアパートがあるとは気がつかなかつた。だが、それは僕の迂濶さばかりからではない、その古びた木造二階建の家屋は殆ど芥箱か何かのやうに引込んだところに目だたなく存在してゐたのだから。僕たちは大きな薄暗い芥箱のなかに這入つて行つた。朽ちかかつた木の階段にはところどころ穴があいてゐて、短い階段をのぼると、低い天井に薄暗い電燈が一つ佗しげに灯つてゐる。そこから一米幅の廊下の筈なのだが、薪やらバケツが通路一杯塞いでゐた。障害物を避けながら二三歩進むと、すぐ目の前の扉が開放しになつてゐる部屋の入口に小僧は立留まつた。が、つづいて僕がその入口に立つた時、何か気味悪い濁つた塊りがもぢやもぢやと暗いなかに蠢めいてゐる姿に僕は圧倒されさうだつた。小僧はその部屋に上つて行くと、何かひそひそと話してゐた。
「どうぞおはいり下さい」膝の上に女の児を抱へてゐる若い女が僕の方へ声をかけた。狭い汚れた畳の上には白米が一杯に新聞紙に展げてあつたが、僕が入つて来ると、真黒な腕をした痩せた老人が、それを両手で掻き集めて隅の方へ片づけた。壁に凭掛つて汚れたモンペ姿の老婆が二人、脚を投出してゐた。五人暮しかしら……僕はこの部屋の人員のことをぼんやり考へてゐた。
「お天気がわるくていけませんね。いい部屋ですよ、日もよくあたりますし……」若い女は落着払つて日常の会話を持ちかけて来た。僕はさつき土地会社の男から、その部屋の条件についていろいろきかされてはゐた。アパート管理人の諒解は後でうけることにして、最初は同居人の形でずるずる入り込むこと、(さうでもしなければこの節、部屋など絶対にないと彼は云つた)だから、部屋を見に行つても、前から識りあひの人が訪ねて来たやうに振舞つて欲しい、さうして同じアパートの煩さい人々の手前をうまく繕つてもらひたいといふのが、その条件であつた。差当つて僕はこの条件に縛られて行くより他はなささうだつた。若い女はあたりの部屋に聴かすため大きな声で世間話をするのだつた。それから、あたりを憚るやうな声で部屋の説明をした。
「あと三日位で部屋はきれいに開けますよ。ですけど、当分、間代は私の方から管理人へ払ふことにさせて下さい。それからアパートの人達にはとにかく身内だといふことにしておいて下さい。いいえ、隣近所はみんなそれはいい人たちばかりです」
 その説明は何か眼の前にある、僕には見えない、複雑な糸について云つてゐるやうな、もどかしさがあつた。
「それであなたたちの出て行くあてはあるのですか」
「こんどは事務所の二階へ移ります。いいえ、この人たちは郷里から一寸来てゐましたが明日は帰ります」
 僕は古びた箪笥や境台でごたごたした壁際や、向ふに見えるガラスの破損した窓に視線をやり、何かがつかりしたやうな気持だつた。僕と案内人とがその薄暗い芥箱のやうなアパートの建物を抜けて外に出ると、あたりは陰気な雨の巷であつたが、それでも外の光線や空気がすつと爽やかに感じられた。
 返事を少し待つてもらふことにしたが、僕は怯気づいてゐる気持を強ひて鞭打たなければならなかつた。どんな陰惨な建物だらうが、暗い環境だらうが、とにかく自分の部屋として、いくらかの空間が与へられれば、それでいいではないか。さうすれば、その部屋[#「部屋」に傍点]の中に何ものにも侵されない僕の部屋[#「部屋」に傍点]を持つことができるのだ。だが、やはり最初あの部屋の入口に佇んだ時の、あのもぢやもぢやとした濁つた気味のわるいものが、どうにもならなかつた。僕はどう決めていいのか思ひ惑つてゐた。……朝がた僕は奇怪な夢をみた。アパートの部屋のあのもぢやもぢやとした真黒い塊りが一瞬、電撃のやうに僕の頭のなかに再現したかとおもふと、「あれは、泥棒の巣だ」と、はつきりした声が聴きとれた。僕は妙に胸苦しく脅えた感覚に突落されてゐた。
 朝の外食を済ませて部屋に戻ると、甥から電報が来てゐた。
〈アサツテカヘル〉
 僕には殺気立つた甥の顔が目に見えてくるやうだつた。もはや躊躇してゐる際ではなかつた。僕は早速外出した。出版社に立寄つて、前から申込んである前借の金を頼んだ。金はその時、都合よく融通してもらへた。一万円の包みを受取ると、僕はとにかくめさきが少し明るくなつた。それから、その足で土地会社へ立寄つた。もの馴れ顔のブローカーは僕の来るのを待つてゐたかのやうな顔つきだつた。
「まだ少し不審があるのですが、あんな風な条件で約束しても、ほんとに相手は他へ移る的があるものかどうか」
「さあ、それはあの人も子供まである婦人ですし、まさか大それたことはしないでせう。何でも借金の期限に追はれてゐるやうで、話は急いでゐるやうです。誰でもいいから約束する人を見つけてくれと今朝もやつて来ました」ブローカーは慎重さうな顔つきで更につけ加へた。「とにかく、相手の身元をはつきり確かめておきなさい。米穀通帳なり金融通帳なり見せて貰つて控へておけば大丈夫でせう」
 僕はまだ割り切れないものがあつたが、その足でアパートの部屋を訪れた。入口に立つたとき昨日と変つて、部屋は稍※[#二の字点、1−2−22]すつきりした(少くともそう感じようとする気持が僕にあつたのかもしれない)感じだつた。部屋には昨日の若い女がひとり壁に凭掛つてゐた。
「少しは広々したでせう。今朝、箪笥を売払つてさつぱりしたところなのです」
 女は自嘲的な調子で狭い部屋を見廻した。それはやはり何かに追つめられてゐるものの顔だつた。
「子供は母が郷里へ連れて帰りました。これからはほんとに新規蒔直しでやるつもりです」
 僕は米穀通帳のことを持ち出した。
「あ、身許調査ですか」と、女は汚れた通帳を取出して僕の前に展げた。ずらりといろんな姓名が記入してあるなかから杉本花子といふところを指して教へてくれた。その通帳の住所は福島県になつてゐた。女はそのことを弁解しだした。
「以前はここで配給とつてゐたのですが、田舎の方が欠配もないし、ずつといいので、あちらへ移したのです。だから、お米はあちらから背負つて運んでゐるのです」
 僕には何だかよく事情がわからなかつた。すると女はこんなことを云ひ出した。
「あなたの荷物は沢山おありなのですか。明日あたり私はここを引揚げるつもりですが、ただ少しお願ひがあるのです。目ぼしい荷物は持つて行きますが、この鏡台とか押入の行李などは当分ここへ置かして下さいませんか。どつちみち間代は当分私の方から管理人へ払ひます」女はもう僕がここを借りることにしているやうだつた。
 その夕方、土地会社の男が僕を訪ねて来て、僕の返事を求めた。僕はまだ何とも決心がつかなかつた。するとまた翌朝、土地会社の男はやつて来た。何しろ相手は急いでゐるのだから手金だけでも今日中に渡してやつてくれ、でなければ話を他へ持つて行くと急かしだした。たうとう僕はその申込を承諾した。彼が帰つて行くのと入れ違ひにアパートの女が金を受取りに来た。女は金を受取ると、それでは早速今日のうちに荷物を少し運んで頂きたいと云ひだした。僕はいま荷物を向ふへ運んでみたところで、まだどうにもならないだらうと思つた。あまり気はすすまなかつたが、とにかく行李を一箇だけその部屋に運んで行つた。……その部屋の片隅に僕の行李が置かれると、僕といふ存在はひどく中途半ぱな気持にされてしまつた。だが、こんな風な困難な状態も焼け出されの僕にとつては止むを得ないことかのやうにおもへた。
 翌日は残金を渡して、一応とにかく部屋を開渡してもらふ約束だつた。僕が約束の時刻に訪ねて行くと、部屋はいろんな荷物でごつた返してゐた。
「ああ、くたびれた」と女は大きな
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