その時私は何か幸運にでもありついたように嬉しかった。それは肩からかける雑嚢なのだが、そのなかには緊急な品々が手際よく詰めてあった。その頃、私はもう逃亡の訓練には馴れていたが、こんな細心な準備ができていたのは、これは一年前に死別れた妻の細心なやり方が絶えず私に作用していたためだろう。
 その雑嚢のなかに詰めておいた品物の名をここに列挙すると
 繃帯、脱脂綿、メンソレータム、ヒロポン、ズルファミン剤、オートミイルの缶入、炒米、万年筆、小刀、鉛筆、手帳、夏シャツ、手拭、縫糸、針、ちり紙、煙草、マッチ、郵便貯金通帳、ハガキ、印鑑
 これだけが、うまく詰めこんであった。かねて私は水の中に飛込んだりすることも計算に入れて、タバコは湿らないために味の素の小缶のなかにマッチと一緒に密閉しておいた。家の附近が燃えだしたので、私は川の方へ逃げて行った。泉邸の裏の川岸へ来てみると兄も妹も来ていた。近所の知った人の顔もかなり見かけられた。私はタバコをとりだして、前に悄然と立っている隣組長にすすめた。彼はさきほど自宅で長男の死体を見とどけて来たばかりのところだった。向岸はさかんに燃えつづけていた。私は川岸に腰をおろすとヒロポンを五粒飲んでおいた。
 上流から玉葱の函が流れて来た。鉄橋の上で転覆した貨車から放り出されたものである。私は水際へおりて行って、函を引よせては、中の玉葱を岸の上の人に手渡した。夕方になると、こちらの岸が燃えだしたので、火の鎮まっている向岸の砂原に私たちは移って行った。ここでは、もう焚火をして夕餉の米を煮いているものもあった。私の拾った玉葱も、瓦の上で焼いて食べられた。私の雑嚢のなかの品物がここでも役立った。腕を怪我している近所の老人の手当に、私はメンソレータムや繃帯をとり出した。
 次兄の家の女中は顔にひどく火傷していたが、私はその姿を見ると、オリイブ油の瓶を雑嚢に入れておかなかったのが残念だった。前から私はオリイブ油の小瓶をいつも上衣のポケットに入れていた。上衣はその朝拾えたのだが、瓶はあの瞬間どこかへ飛んでしまったのだろう。
 私たちはその翌日、東照宮の境内に避難して行つた。妹は私がズルファミン剤をもっていることを知ると、それを今服用しておいた方がいいのではないかと頻りにすすめる。そこで、私たちは念のためにそれを飲んでおいた。これも後になって考えてみると、原子爆弾症
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