る。板敷の上にごろりと横たはる。軽いめまひのなかに僕は細つそりと眼を閉ぢる。窓から射し込む暮近い明りが、僕の内臓を透きとほつて過ぎる。軽い。軽い。僕にはもう殆ど体重がないのだ。窓の外にある樹木や空やアスフアルトの坂は、みんな痺れてゐる、それが僕のなかに崩れかからうとして痙攣する、……僕は惨劇の中に死にかかつてゐる男だらうか。違う、……。僕は結晶を夢みるのだ。軽い、軽い、空白のなかに浮び上る。透明。……突然、僕は鞭の唸りを耳許で聴いたやうにおもふ。階下の入口が開いて、この家の細君の声がしてゐる。僕ははつとする。忽ち僕は囚人の意識をとり戻すのだ。僕は身を屈め眼を伏せて、無抵抗の窒息状態に還つてゐる。僕は四方の壁と天井と、二・五メートル立方の空間の中に存在してゐる。存在してゐる、僕がここに存在してゐるといふことが、ここでは一番いけないことなのだ。

 いつから僕はこんな風にされてしまつたのだらうか……。とにかく、最初この家に僕がやつて来た当座は、今とはまるで容子が違つてゐた。恰度、四月はじめで、ガラス張の階下には明るい光線がふんだんに溢れ、僕はそのアトリエ式の部屋で、この家の主人と細君とその弟と、同じ食卓でくつろいで箸をとつた。いろんな話をした。何しろ久振りに打とけて話し合へる旧友なのだ。広島での遭難、それにつづく飢ゑと屈辱の暮し、……僕は喋りすぎる位喋つたかもしれない。さうだ、僕は少し浮々してゐたやうだ。だが、僕はあの時、焼出されの文無しを置いてくれるといふ、この家に対する感謝で心は甘く弾んでゐた。僕は職を求めてうろうろしたが、漸くありついた夜学の教師の口では自分一人を養うことも出来なかつたが、それとても、あまり気を滅入らせはしなかつた。着古しの国民服が乞食のやうに見窄しいのも、靴の底が抜けかかつてゐるのも殆ど僕は気にならなかつた。この靴で、僕はとにかく逃げ廻つて生きのびたのだし、飢ゑでぶつ斃れさうな体を支へてくれた自分の脚をなつかしんだ。だから、通勤が始まると、混雑する電車の中では、いつも抵抗するやうに僕はその二つの脚をつつ張つてゐたのだ。それから、……それは、このガラスの家の前の空地に、急に夏を想はすやうな眩しい光が溢れた午後だつたが、僕は切株の上に腰を下して、高い高い梢を見上げた。家のまはりの樹木は青空に接するあたり鬱蒼と風に若葉が揺れてゐたが、その方を眺めてゐると、何か遙かに優しいものに誘はれて、(あ、時は流れた)といふ感嘆が湧いた。ほんとに、そこから梢を見上げてゐると、自分のゐる場所がだんだん谷底のやうにおもへる。多分いま僕はこの世の谷底にゐるに違ひなかつた。だが、いつかは、いつかは谷間を攀ぢのぼつて、さうして、もう一度、あ、時は流れたと感嘆したいものだ。とかく僕は戦災乞食の己れを見離してはゐなかつた。
 もつとも、こんなことはあつた。何かの話の中途で、この家の細君はいきなり僕に変な罵倒を投げつけた。
「へえツ、あなたはいつまで生きてゐられると思ふのです、あなたの生命なんか、あともう二三年もない癖に」
 僕はこの断定に吃驚して、僕のどこかに死神が取憑いてゐるのかと、自分の背後を振返つた。が、細君は確信に満ちたやうな、ひどく冷酷な表情だつた。……もしかすると、僕には、この肉眼に灼きつけられた、あの大災禍の絵巻が、死狂ふ裸体の群像が、まだどこかで僕に作用してゐるのではないか。それで、細君の眼には、僕が最後の審判からのがれて来た不吉な人間のやうに見えるのかもしれない。罹災以来、絶えず飢ゑと屈辱をくぐり抜けて来た、この僕に、死の臭がまつはりついてゐたとしても致し方のないことであつた。だが、僕はあまりかうした念想に耽けりたくなかつたし、寧ろ何事もなかつた人間のやうな顔つきでゐたかつた。
 このガラス張の家は――これは十年前建てられたのだが――今はいたる処が破損しかかつてゐたので、扉の開け立てや、階段の昇り降りにも注意を要した。家の外にある井戸のポンプも調子が狂つてゐて取扱因難だつた。が、僕は最初ここへ来たとき一とほりその心得をきかされた。「もう他に注意してもらふことはなかつたと思ふが……」と、細君はちよつと満足げにあたりを見廻した。だが、まだ心得ておくべき、いろんな細かな不文律があつたのだ。「なにしろ彼女の生活様式や信条をみんなに押しつけようとするのでね」と、ある時この家の主人は僕にそつと解説してくれた。「彼女の精神形成史は非常に複雑で不幸なのさ」と、彼は自らの不幸を嘆くやうに呟くのであつた。隣組の人とは絶対に無駄口をきいてはならないこと、家の内だけでなく、その周辺数米に亘つて、さまざまの神経的な禁制が存在してゐること、そんなことの次第も僕はだんだん覚らされて行つた。
 この家の外は木立の多いアスフアルトの坂路であつて、大きな邸の
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