もへた。
それから二三日後のことであつた。
「もう起きてごそごそ動かないことです。義夫さん、寝てゐなさい、寝てゐなさい、食糧の配給があるまでは寝てゐなさい」
この家の細君のひきつつた声に、その弟はのつそりと階段を昇つて行つた。それは恰度、僕がみじめな朝食を済ませた時であつたが、やがて僕も何かに脅かされたやうな気分で自分の部屋に引込んで行つた。ドアをあけて自分の部屋に入らうとしたとたん、僕は細目に開いてゐる窓から隣家の庭さきが見えた。青いひつそりとした葉蔭に紫陽花の花が咲いてゐて、縁側の障子はとざされてゐた。(紫陽花の花が咲いてゐるのか)僕はふと幸福をおもひださうとしてゐた。
その翌朝だつた。雨雲の切れ目から、陽の光とねばつこい風が吹きつけて、妙に人をいらいらさせる朝だつた。たまたま僕は煙草を持つてゐたが、マツチがなかつた。佗しい食後の空腹状態で、無性に僕は煙草が吸つてみたくなつた。僕はじりじりしながら、ポケツトの隅々を探した。それから、ふとレンズを思ひついた。太陽の光線で点火することは罹災後寒村にゐた頃からやつてゐたことなのだ。僕は表へ出ると、その家の空地の陽のよくあたりさうな処を選んだ。薄雲が流れてゐて、なかなか火は点かなかつた。空地のすぐ向は他所の畑になつてゐたが、その境に暫く僕は佇んでゐた。家のすぐ前では配給ものの菜つぱを囲んで隣組の女たちが集まつてゐた。漸く煙草に点火すると、僕は吻として疲れながら屋内に戻つた。それから僕はそのことを細君から云はれる瞬間までは、自分のしたことを忘れてゐたのだが……。昼の食事に僕は階下に下りて椅子に腰かけた。すると、この家の細君がすぐ僕の側の椅子に腰をおろし、前屈みの姿勢でにじり寄つて来た。
「あんた、部屋移つたらどう」
ぽつんと放たれた言葉で、僕はまだ何のことかよく分らなかつた。見ると、相手はもつと何か切出さうとして、いらいらしてゐる表情だつた。
「どこの部屋に移るのです」
「他所へ越してもらひたいのよ」
僕は全く混乱してしまつた。殆ど息も塞がりさうになり、僕の心臓が急にぐつと搾縮されてゐることがわかつた。ふと見ると、細君の額には、じりじりと汗の玉が浮んでゐた。あ、今日は少し蒸暑いから気持がいらいらするのだな、瞬間、僕はそんな物凄い顔つきをしてゐる相手を気の毒におもつた。
「私はね、一度命令したことに背く奴は徹底的に憎悪してやります」
「どんな間違を僕が犯したのですか」僕は青ざめて聞きかへした。
「今朝あなたは畑のところで何をしてゐたのです」
漸く僕には少し意味がわかつて来た。いつだつたか、理由は分らなかつたが、あまり家のまはりを出歩いてはいけないと言ひ渡されたことが、たしかにあつたやうだ。僕は煙草のことを説明しようと思つたが、言葉にはならなかつた。
「あなたが普通の人間でないことを知つてゐる人ならかまひませんが、何も知らない人はみんな吃驚しますよ。子供があきれて、あなたを見てゐました。この近所の子供は私がたつた一言、『あれはキチガヒだ』とそそのかせば、今後あなたを見るたびに石を投げます」
「………………」
「それに、あの畑の持主は、いつでも物蔭から見張りしてゐて、少しでも怪しげな奴が立つてゐれば、いきなり鍬で撲りつけます。つまりあなたは撲り殺されたいのですか」
僕はもう平謝りに謝るより他はなかつた。黙つたまま細君は漸く椅子を離れた。
僕の心臓はゆさぶられ、打ちのめされてしまつた。自分の部屋に戻ると、暫くごろんと寝転んでゐたが、何かに急きたてられ、さうだ、かうしてはゐられない、と立上つた。かうしてはゐられない、……とにかく、なんとかしなければ、と僕は何か的があるやうに外出の用意をした。といつて、何処にも行く場所はなかつたし、出勤の時間はまだ早かつたが、僕はいつものやうに電車に揉みくちやにされてゐた。……僕は思考力を失つてゐた。心臓ばかりがゆさぶられ、脅え上つて一睡もしようとしない神経があつた。昼間の衝撃が緩い緩い速度で回転してゐる。と思ふと、突然、路上に放り出されて喘いでゐる自分を見出すのだ。炎天の焔の中で死狂ふ人や、放り出されてこときれてゐる死骸が……。あの死骸は僕なのか。……あの時以来、僕は死ぬるならやはり何処かの軒の下で穏かに呼吸をひきとりたいと思つてゐた。ところが、ふと気がついたのだが、僕を容れてくれる屋根は今はもう何処にもないのだ。これははじめから分つてゐたはずだつた。僕の迂闊さがいけなかつたのだ。
悪いことに、僕はその頃から、ときどき変な咳をするやうになつてゐた。
「一度医者に診てもらつたらどうだ」この家の主人は僕を憐むやうな調子で云つてくれる。「今病気したら大変だからね、早いうちに養生した方がいい」僕はただ泣きたい気持でそれを聞いてゐた。……僕の怪しげな咳
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