塀から、その頃繁りだした青葉が一せいに覗いてゐたが、駅の方へ出掛けて行く坂路を行くたびに、僕は雨に濡れた青葉の陰鬱で染められてゆくやうな気持がした。ガラス張の家でもこの惨めな雨の季節がぢかに滲み込んでゐた。主食の配給がぱつたり無くなると、僕はだんだん四肢がだるくなつて来た。神経が小刻みに慄へて、みんなの顔つきが重苦しくなる。とくに、この家の細君はその頃になると、何かいつも嚇怒を抑へつけてゐるやうな貌だつた。
だが、何といつても僕は自分自身のひだるさに気を配らねばならなかつた。たとへば銭湯へ行くにしても、僕は一番疲労しさうにない時刻と天候を選ぶ。洗面器を持つて細い石段の坂を上り溝に添ふ大通りまで出ると、疾走するトラツクの後にパツと舞ひ上る焼跡の砂塵や、ひよろひよろ畑の青い色が、忽ち僕を疲らせる。僕が頭をあげて青空を視つめるなら、そのまま僕は吸ひとられてしまふだらう。僕は今にも切れさうな糸を繰るやうな気持で、自分自身と外界とを絶えず調節しなければならなかつた。……久しく澱粉類を絶たれて、蒟蒻とか菜つぱとかで紛らされてゐる肉体は、ひどく敏感になつて、たとへば朝のお茶を飲んだだけでも、それは足の裏まで沁み亘つてゆくのがわかる。それから、路を歩いてゐても、何か郷愁に似たとてもいい匂ひがするので、あれは何だつたかしらと、暫く戸迷ひながら、さうだ、パンを焼いてゐる匂ひだな、世の中にはパンを焼いて食べる幸福な家庭だつてあるのかと、吃驚さされる。
毎日、僕は夕方には滅茶苦茶に混乱する電車に揉まれて、夜学の勤めに出なければならなかつた。僕は疲れないために、時間をゆつくり費して駅まで辿りつく。ホームの雑沓の中に立つてゐると、もう少しで今にもパタンと倒れさうな気がする。さういふ時、僕のすぐ前に、やはり青白い、ひだるさうな顔が見つかると、おや同じやうな仲間もゐたのかと、少し吻とするのだが、相手は僕の視線にかすかに怒つた表情で応へる。(どちらがさきに斃れるかなんて! 畜生!)まるでさう云ふ無言の抗議が聞こえてくるやうである。それから、僕をいつも電車の中で迫害する荷物だらけの人間と来たら、あれは人間が歩いてゐるのか、食糧が歩いてゐるのか。僕にはあんな重荷を背負へる体力も無いし、もとよりそんなものを購へる金もないのだ。どうかすると僕は腹の底から絶体絶命の怒りがこみ上げて来さうになる。……だが、
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