苦しく美しき夏
原民喜
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)陽《ひ》の光の圧迫が
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)彼|等《ら》二人が
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「さんずい+景+頁」、第3水準1−87−32]気《こうき》に
−−
陽《ひ》の光の圧迫が弱まってゆくのが柱に凭掛《よりかか》っている彼に、向側にいる妻の微《かす》かな安堵《あんど》を感じさせると、彼はふらりと立上って台所から下駄をつっかけて狭い裏の露次へ歩いて行ったが、何気なく隣境の空を見上げると高い樹木の梢《こずえ》に強烈な陽の光が帯のように纏《まつ》わりついていて、そこだけが赫《かっ》と燃えているようだった。てらてらとした葉をもつその樹木の梢は鏡のようにひっそりした空のなかで美しく燃え狂っている。と忽《たちま》ちそれは妻がみたいつかの夢の極致のように彼におもえた。熱い海岸の砂地の反射にぐったりとした妻は、陽の翳《かげ》ってゆく田舎路《いなかみち》を歩いて行く。ぐったりとした四肢《しし》の疲れのように田舎路は仄暗《ほのぐら》くなってゆくのだが、ふと眼を藁葺屋根《わらぶきやね》の上にやると、大きな榎《えのき》の梢が一ところ真昼のように明るい光線を湛《たた》えている。それは恐怖と憧憬《どうけい》のおののきに燃えてゆくようだ。いつのまにか妻は女学生の頃の感覚に喚《よ》び戻されている。苦しげな呻《うめ》き声《ごえ》から喚び起されて妻が語った夢は、彼には途轍《とてつ》もなく美しいもののようにおもえた。その夢の極致が今むこうの空に現れている……。彼にとっては一度妻の脳裏を掠《かす》めたイメージは絶えず何処《どこ》かの空間に実在しているようにおもえた。と同時にそれは彼自身の広漠《こうばく》として心をそそる遠い過去の生前の記憶とも重なり合っていた。あの何か鏡のようにひっそりとした空で美しく燃え狂っている光の帯は、もしかするとあの頂点の方に総《すべ》てはあって、それを見上げている彼自身は儚《はかな》い影ではなかろうか。……これを見せてやろう、ふと彼は妻の姿を求めて、露次の外の窓から家のなかを覗《のぞ》き込んだ。妻は縁側の静臥椅子《せいがいす》に横臥した儘《まま》、ぼんやりと向側の軒の方の空を眺《なが》めていた。それは衰えてゆく外の光線に、あたかも彼女自身の体温器をあてがっているような、祈りに似たものがある。ほんの些細《ささい》な刺戟《しげき》も彼女の容態に響くのだが、そうしていま彼女のいる地上はあまりにも無惨に罅割《ひびわ》れているのだったが、それらを凝《じっ》と耐え忍んでゆくことが彼女の日課であった。
「外へ椅子を持出して休むといいよ」
彼は窓から声をかけてみた。だが、妻は彼の云う意味が判《わか》らないらしく、何とも応《こた》えなかった。その窓際《まどぎわ》を離れると、板壁に立掛けてあるデッキ・チェアーを地面に組み立てて、その上に彼は背を横《よこた》えた。そこからもさきほどの、あの梢の光線は眺められた。首筋にあたるチェアーの感触は固かったが、彼はまるで一日の静かな療養をはたした病人のように、深々と身を埋めていた。
それに横わると、殆《ほとん》どすべての抵抗がとれて、肉体の疵《きず》も魂の疼《うずき》も自《おのずか》ら少しずつ医《いや》されてゆく椅子――そのような椅子を彼は夢想するのだった。その純白なサナトリウムは※[#「さんずい+景+頁」、第3水準1−87−32]気《こうき》に満ちた山の中腹に建っていて、空気は肺に泌《し》み入るように冷たいが、陽の光は柔かな愛撫《あいぶ》を投げかけてくれる。そこでは、すべての物の象ががっちりとして懐《なつか》しく人間の眼に映ってくる。どんな微細な症状もここでは隈《くま》なく照らし出されるのだが、そのかわり細胞の隅々《すみずみ》まで完膚なきまで治療されてゆく。厳格な規律と、行きとどいた設備、それから何よりも優しい心づかい、……そうしたものに取囲まれて、静かな月日が流れてゆく。人は恢復期《かいふくき》の悦《よろこ》びに和らぐ眸《ひとみ》をどうしても向うに見える樹木の残映にふりむけたくなるのだ……。
今、あたりは奇妙に物静かだった。いつも近所合壁の寄合う場所になっている表の方の露次もひっそりとして人気《ひとけ》がなかった。それだけでも妻はたしかに一ときの安堵に恵まれているようだった。そして、彼もまたあの恢復期の人のように幻の椅子に凭《よ》りかかっていた。
彼|等《ら》二人がはじめてその土地に居着いた年の夏……。その年の夏は狂気の追憶のように彼に刻まれている。居着いた借家――それは
次へ
全5ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング