つも鋩《きっさき》のように彼に突立ってくるどうにもならぬ絶望感と、そこから跳《は》ね上ろうとする憤怒《ふんぬ》が、今も身裡《みうち》を疼くのをおぼえた。殆ど祈るような眼つきで、彼は空間を視つめていた。と、遠い昔の川遊びの記憶がふと目さきにちらついて来る。故郷の澄みきった水と子供のあざやかな感覚が静かな音響をともないながら……。
「こんな小説はどう思う」彼は妻に話しかけた。
「子供がはじめて乗合馬車に乗せてもらって、川へ連れて行ってもらう。それから川で海老《えび》を獲《と》るのだが、瓶《びん》のなかから海老が跳ねて子供は泣きだす」
 妻の眼は大きく見ひらかれた。それは無心なものに視入ったり憧《あこが》れたりするときの、一番懐しそうな眼だった。それから急に迸《ほとばし》るような悦びが顔一ぱいにひろがった。
「お書きなさい、それはきっといいものが書けます」
 その祈るような眼は遙《はる》か遠くにあるものに対《むか》って、不思議な透視を働かせているようだった。彼もまた弾《はず》む心で殆ど妻の透視しているものを信じてもいいとおもえたのだが……。
 彼の妻は結婚の最初のその日から、やがて彼のうちに発展するだろうものを信じていた。それまで彼の書いたものを二つ三つ読んだだけで、もう彼女は彼の文学を疑わなかった。それから熱狂がはじまった。さりげない会話や日常の振舞の一つ一つにも彼をその方向へ振向け、そこへ駆り立てようとするのが窺《うかが》われた。彼は若い女の心に転じられた夢の素直さに驚き、それからその親切に甘えた。だが、何の職業にも就《つ》けず、世間にも知られず、ひたすら自分ひとりで、ものを書いて行こうとする男には、身を斫《き》りさいなむばかりの不安と焦躁《しょうそう》が渦巻いていた。世の嘲笑《ちょうしょう》や批難に堪えてゆけるだけの確乎《かっこ》たるものはなかったが、どうかすると、彼はよく昂然《こうぜん》と、しかし、低く呟《つぶや》いた。
「たとえ全世界を喪《うしな》おうとも……」
 たとえ全世界を喪おうとも……それはそれでよかった。だが、眼の前に一人の女が信じようとしている男、その男が遂《つい》に何ものでもなかったとしたら……。
 彼にとって、文学への宿願は少年の頃から根ざしてはいた。が、非力で薄弱な彼には、まだ、この頃になっても殆ど何の世界も築くことができなかった。世界は彼にと
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