永遠のみどり
原民喜
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)鼬《いたち》といひ
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梢をふり仰ぐと、嫩葉のふくらみに優しいものがチラつくやうだつた。樹木が、春さきの樹木の姿が、彼をかすかに慰めてゐた。吉祥寺の下宿へ移つてからは、人は稀れにしか訪ねて来なかつた。彼は一週間も十日も殆ど人間と会話をする機会がなかつた。外に出て、煙草を買ふとき、「タバコを下さい」といふ。喫茶店に入つて、「コーヒー」と註文する。日に言葉を発するのは、二ことか三ことであつた。だが、そのかはり、声にならない無数の言葉は、絶えず彼のまはりを渦巻いてゐた。
水道道路のガード近くの叢に、白い小犬の死骸がころがつてゐた。春さきの陽を受けて安らかにのびのびと睡つてゐるやうな恰好だつた。誰にも知られず誰にも顧みられず、あのやうに静かに死ねるものなら……彼は散歩の途中、いつまでも野晒しになつてゐる小さな死体を、しみじみと眺めるのだつた。これは、彼の記憶に灼きつけられてゐる人間の惨死図とは、まるで違ふ表情なのだ。
「これからさき、これからさき、あの男はどうして生きて行くのだらう」――彼は年少の友人達にそんな噂をされてゐた。それは彼が神田の出版屋の一室を立退くことになつてゐて、行先がまだ決まらず、一切が宙に迷つてゐる頃のことだつた。雑誌がつぶれ、出版社が倒れ、微力な作家が葬られてゆく情勢に、みんな暗澹とした気分だつた。一そのこと靴磨にならうかしら、と、彼は雑沓のなかで腰を据ゑて働いてゐる靴磨の姿を注意して眺めたりした。
「こないだの晩も電車のなかで、FとNと三人で噂したのは、あなたのことです。これからさき、これからさき、どうして一たい生きて行くのでせうか」近くフランスへ留学することに決定してゐるEは、彼を顧みて云つた。その詠嘆的な心細い口調は、黙つて聞いてゐる彼の腸をよぢるやうであつた。彼はとにかく身を置ける一つの部屋が欲しかつた。
荻窪の知人の世話で借りれる約束になつてゐた部屋を、ある日、彼が確かめに行くと、話は全く喰ひちがつてゐた。茫然として夕ぐれの路を歩いてゐると、ふと、その知人と出逢つた。その足で、彼は一緒に吉祥寺の方の別の心あたりを探してもらつた。そこの部屋を借りることに決めたのは、その晩だつた。
騒々しい神田の一角から、吉祥寺の下宿の二階に移ると、彼は久振りに自分の書斎へ戻つたやうな気持がした。静かだつた。二階の窓からは竹藪や木立や家屋が、ゆつたりと空間を占めて展望された。ぼんやり机の前に坐つてゐると、彼はそこが妻と死別した家のつづきのやうな気持さへした。五日市街道を歩けば、樹木がしきりに彼の眼についた。楢、欅、木蘭、……あ、これだつたのかしら、久しく恋してゐたものに、めぐりあつたやうに心がふくらむ。……だが、微力な作家の暗澹たる予想は、ここへ移つても少しも変つてはゐなかつた。二年前、彼が広島の土地を売つて得た金が、まだほんの少し手許に残つてゐた。それはこのさき三、四ヶ月生きてゆける計算だつた。彼はこの頃また、あの「怪物」の比喩を頻りに想ひ出すのだつた。
非力な戦災者を絶えず窮死に追ひつめ、何もかも奪ひとつてしまはうとする怪物にむかつて、彼は広島の焼跡の地所を叩きつけて逃げたつもりだつた。これだけ怪物の口に与へておけば、あと一年位は生きのびることができる。彼は地所を売つて得た金を手にして、その頃、昂然とかう考へた。すると、怪物はふと、おもむろに追求の手を変へたのだ。彼の原稿が少しづつ売れたり、原子爆弾の体験を書いた作品が、一部の人に認められて、単行本になつたりした。彼はどうやら二年間無事に生きのびることができた。だが、怪物は決して追求の手をゆるめたのではなかつた。再びその貌が真近かに現れたとき、彼はもう相手に叩き与へる何ものも無く、今は逃亡手段も殆ど見出せない破目に陥つてゐた。
「君はもう死んだつていいぢやないか。何をおづおづするのだ」
特殊潜水艦の搭乗員だつた若い友人は酔ぱらふと彼にむかつて、こんなことを云つた。虚しく屠られてしまつた無数の哀しい生命にくらべれば、窮地に追い詰められてはゐても、とにかく彼の方が幸かもしれなかつた。天が彼を無用の人間として葬るなら、止むを得ないだらう。ガード近くの叢で見た犬の死骸はときどき彼の脳裏に閃めいた。死ぬ前にもう一度、といふ言葉が、どうかするとすぐ浮んだ。が、それを否定するやうに激しく頭を振つてゐた。しかし、もう一度、彼は郷里に行つてみたかつたのだ。かねて彼は作家のMから、こんど行はれる、日本ペンクラブの「広島の会」に同行しないかと誘はれてゐた。広島の兄からは、間近かに迫つた甥の結婚式に戻つて来ないかと問合せの手紙が来てゐた。倉敷の妹からも、その途中彼に立寄つてくれと云つて来た。だが、旅費のことで彼はまだ何ともはつきり決心がつかなかつた。
ある日、彼はすぐ近くにある、井ノ頭公園の中へはじめて足を踏込んでみた。ずつと前に妻と一度ここへ遊んだことがあつたが、その時の甘い記憶があまりに鮮明だつたので、何かここを再び訪ねるのが躊躇されてゐたのだつた。薄暗い並木の下の路を這入つて行くと、すぐ眼の前に糠のやうに小さな虫の群が渦巻いてゐた。彼は池のほとりに出ると、水を眺めながら、ぐるぐる歩いた。水のなかの浮草は新しい蔓を張り、そのなかを、おたまじやくしが泳ぎ廻つてゐる。なみなみと満ち溢れる明るいものが頻りに感じられるのだつた。
彼が日に一度はそこを通る樹木の多い路は、日毎に春らしく移りかはつてゐた。枝についた新芽にそそぐ陽の光を見ただけでも、それは酒のやうに彼を酔はせた。最も微妙な音楽がそこから溢れでるやうな気持がした。
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とおうい とおうい あまぎりいいす
朝がふたたび みどり色にそまり
ふくらんでゆく蕾のぐらすに
やさしげな予感がうつつてはゐないか
少年の胸には 朝ごとに窓窓がひらかれた
その窓からのぞいてゐる 遠い私よ
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これは二年前、彼が広島に行つたとき、何気なくノートに書きしるしておいたものである。郷愁が彼の心を噛んだ。甥の結婚式には間にあはなかつたが、こんどのペンクラブ「広島の会」には、どうしても出掛ようと思つた。……彼は舟入川口町の姉の家にある一枚の写真を忘れなかつた。それは彼が少年の頃、死別れた一人の姉の写真だつたが、葡萄棚の下に佇んでゐる、もの柔かい少女の姿が、今もしきりに懐かしかつた。さうだ、こんど広島へ行つたら、あの写真を借りてもどらう――さういふ突飛なおもひつきが更らに彼の郷愁を煽るのだつた。
ある日、彼は友人から、少年向の単行本の相談をうけた。それは確実な出版社の企画で、その仕事をなしとげれば彼にとつては六ヶ月位の生活が保証される見込だつた。急に目さきが明るくなつて来たおもひだつた。その仕事で金が貰へるのは、六ヶ月位あとのことだから、それまでの食ひつなぎのために、彼は広島の兄に借金を申込むつもりにした。……倉敷の姪たちへの土産ものを買ひながら、彼はなんとなく心が弾んだ。少女の好みさうなものを選んでゐると、やさしい交流が遠くに感じられた。
……それは恋といふのではなかつたが、彼は昨年の夏以来、ある優しいものによつて揺すぶられてゐた。ふとしたことから知りあひになつた、Uといふ二十二になるお嬢さんは、彼にとつて不思議な存在になつた。最初の頃、その顔は眩しいやうに彼を戦かせ、一緒にゐるのが何か呼吸苦しかつた。が、馴れるに随つて、彼のなかの苦しいものは除かれて行つたが、何度逢つても、繊細で清楚な鋭い感じは変らなかつた。彼はそのことを口に出して讃めた。すると、タイピストのお嬢さんは云ふのだつた。
「女の心をそんな風に美しくばかり考へるのは間違ひでせう。それに、美はすぐにうつろひますわ」
彼は側にゐる、この優雅な少女が、戦時中、十文字に襷をかけて挺身隊にゐたといふことを、きいただけでも何か痛々しい感じがした。一緒にお茶を飲んだり、散歩してゐる時、声や表情にパツと新鮮な閃めきがあつた。二十二歳といへば彼が結婚した時の妻の年齢であつた。
「とにかく、あなたは懐しいひとだ。懐しいひととして憶えておきたい」
神田を引あげる前の晩、彼が部屋中を荷物で散らかしてゐると、Uは窓の外から声をかけた。彼はすぐ外に出て一緒に散歩した。吉祥寺に移つてからは、逢ふ機会もなかつた。が、広島へ持つて行くカバンのなかに、彼はお嬢さんの写真をそつと入れておいた。……ペンクラブの一行とは広島で落合ふことにして彼は一足さきに東京を出発した。
倉敷駅の改札口を出ると、小さな犬を抱へてゐる女の児が目についた。と、その女の児は黙つて彼にお辞儀した。暫く見なかつた間に小さな姪はどこか子供の頃の妹の顔つきと似てきた。
「お母さんは今ちよつと出かけてゐますから」と、小さな姪は勝手口から上つて、玄関の戸を内から開けてくれた。その座敷の机の上には黄色い箱の外国煙草が置いてあつた。
「どうぞ、お吸ひなさい」と姪はマツチを持つてくると、これで役目をはたしたやうに外に出て行つた。彼は壁際によつて、そこの窓を開けてみた。窓のすぐ下に花畑があつて、スミレ、雛菊、チユーリツプなどが咲き揃つてゐた。色彩の渦にしばらく見とれてゐると、表から妹が戻つて来た。すると小さな姪は母親の側にやつて来て、ぺつたり坐つてゐた。大きい方の姪はまだ戻つて来なかつたが、彼が土産の品を取出すと、「まあ、こんなものを買ふとき、やつぱし、あなたも娯しいのでせう」と妹は手にとつて笑つた。
「とてもいいところから貰へて、みんな満足のやうでした」
先日の甥の結婚式の模様を妹はこまごまと話しだした。
「式のとき、あなたの噂も出ましたよ。あれはもう東京で、ちやんといいひとがあるらしい、とみんなさう云つてゐました」
急に彼はをかしくなつた。妻と死別してもう七年になるので、知人の間でとかく揶揄や嘲笑が絶えないのを彼は知つてゐた。……妹が夕飯の仕度にとりかかると、彼は応接室の方へ行つてピアノの前に腰を下した。そのピアノは昔、妹が女学生の頃、広島の家の座敷に据ゑてあつたものだ。彼はピアノの蓋をあけて、ふとキイに触つてみた。暫く無意味な音を叩いてゐると、そこへ中学生の姪が姿を現した。すつかり少女らしくなつた姿が彼の眼にひどく珍しかつた。「何か弾いてきかせて下さい」と彼が頼むと、姪はピアノの上に楽譜をあれこれ捜し廻つてゐた。
「この『エリーゼのために』にしませうか」と云ひながら、また別の楽譜をとりだして彼に示しては、「これはまだ弾けません」とわざわざ断つたりする。その忙しげな動作は躊躇に充ちて危ふげだつたが、やがて、エリーゼの楽譜に眼を据ゑると、指はたしかな音を弾いてゐた。
翌朝、彼が眼をさますと、枕頭に小さな熊や家鴨の玩具が並べてあつた。姪たちのいたづらかと思つて、そのことを云ふと、「あなたが淋しいだらうとおもつて、慰めてあげたのです」と妹は笑ひだした。
その日の午后、彼は姪に見送られて汽車に乗つた。各駅停車のその列車は地方色に染まり、窓の外の眺めも、のんびりしてゐたが、尾道の海が見えて来ると、久振りに見る明るい緑の色にふと彼は惹きつけられた。それから、彼の眼は何かをむさぼるやうに、だんだん窓の外の景色に集中してゐた。彼は妻と死別れてから、これまで何度も妻の郷里を訪ねてゐた。それは妻の出生にまで遡つて、失はれた時間を、心のなかに、もう一度とりかへしたいやうな、漠とした気持からだつたが、その妻の生れた土地ももう間近かにあつた。……本郷駅で下車すると、亡妻の家に立寄つた。その日の夕方、その家のタイル張りの湯にひたると、その風呂にはじめて妻に案内されて入つた時のことがすぐ甦つた。あれから、どれだけの時間が流れたのだらう、と、いつも思ふことが繰返された。
翌日の夕方、彼は広島駅で下車すると、まつすぐに幟町の方へ歩いて行つた。道
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