になつて異状が現れるといふことがあるのだらうか。……だが、妹は義兄の例を不安げに話しだした。その義兄はあの当時、原爆症で毛髪まで無くなつてゐたが、すぐ元気になり、その後長らく異状なかつたのに、最近になつて頬の筋肉がひきつけたり、衰弱が目だつて来たといふのだ。そんな話をきいてゐると、彼はあの直後、広島の地面のところどころから、突き刺すやうに感覚を脅かしてゐた異臭をまた想ひ出すのだつた。
妹のところで昼餉をすますと、彼は電車で楽楽園駅まで行き、そこから八幡村の方へ向かつて、小川に沿うた路を歩いて行つた。遙か向うに、彼の目によく見憶えのある山脈があつた。その山を眺めて歩いてゐると、嘗ての、ひだるい、悲しい、怒りに似た感情がかへりみられた。……飢餓のなかで、よく彼はとぼとぼとこの路を歩いてゐたものだ。冷却した宇宙にひとり残されたやうに、彼はこの路で、茫然として夜の星を仰いだものだ。だが、生存の脅威なら、その後もずつと引続いてゐるはずだつた。今も、生活の破局に晒されながら、かうして、この路をひとり歩いてゐる。だが、とにかく、あれから五年は生きて来たのだ。……いつの間にか、風が出て空気にしめりが
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