永遠のみどり
原民喜
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)鼬《いたち》といひ
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梢をふり仰ぐと、嫩葉のふくらみに優しいものがチラつくやうだつた。樹木が、春さきの樹木の姿が、彼をかすかに慰めてゐた。吉祥寺の下宿へ移つてからは、人は稀れにしか訪ねて来なかつた。彼は一週間も十日も殆ど人間と会話をする機会がなかつた。外に出て、煙草を買ふとき、「タバコを下さい」といふ。喫茶店に入つて、「コーヒー」と註文する。日に言葉を発するのは、二ことか三ことであつた。だが、そのかはり、声にならない無数の言葉は、絶えず彼のまはりを渦巻いてゐた。
水道道路のガード近くの叢に、白い小犬の死骸がころがつてゐた。春さきの陽を受けて安らかにのびのびと睡つてゐるやうな恰好だつた。誰にも知られず誰にも顧みられず、あのやうに静かに死ねるものなら……彼は散歩の途中、いつまでも野晒しになつてゐる小さな死体を、しみじみと眺めるのだつた。これは、彼の記憶に灼きつけられてゐる人間の惨死図とは、まるで違ふ表情なのだ。
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