いかと問合せの手紙が来てゐた。倉敷の妹からも、その途中彼に立寄つてくれと云つて来た。だが、旅費のことで彼はまだ何ともはつきり決心がつかなかつた。
 ある日、彼はすぐ近くにある、井ノ頭公園の中へはじめて足を踏込んでみた。ずつと前に妻と一度ここへ遊んだことがあつたが、その時の甘い記憶があまりに鮮明だつたので、何かここを再び訪ねるのが躊躇されてゐたのだつた。薄暗い並木の下の路を這入つて行くと、すぐ眼の前に糠のやうに小さな虫の群が渦巻いてゐた。彼は池のほとりに出ると、水を眺めながら、ぐるぐる歩いた。水のなかの浮草は新しい蔓を張り、そのなかを、おたまじやくしが泳ぎ廻つてゐる。なみなみと満ち溢れる明るいものが頻りに感じられるのだつた。
 彼が日に一度はそこを通る樹木の多い路は、日毎に春らしく移りかはつてゐた。枝についた新芽にそそぐ陽の光を見ただけでも、それは酒のやうに彼を酔はせた。最も微妙な音楽がそこから溢れでるやうな気持がした。
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とおうい とおうい あまぎりいいす
朝がふたたび みどり色にそまり
ふくらんでゆく蕾のぐらすに
やさしげな予感がうつつてはゐないか
少年の胸には 朝ごとに窓窓がひらかれた
その窓からのぞいてゐる 遠い私よ
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 これは二年前、彼が広島に行つたとき、何気なくノートに書きしるしておいたものである。郷愁が彼の心を噛んだ。甥の結婚式には間にあはなかつたが、こんどのペンクラブ「広島の会」には、どうしても出掛ようと思つた。……彼は舟入川口町の姉の家にある一枚の写真を忘れなかつた。それは彼が少年の頃、死別れた一人の姉の写真だつたが、葡萄棚の下に佇んでゐる、もの柔かい少女の姿が、今もしきりに懐かしかつた。さうだ、こんど広島へ行つたら、あの写真を借りてもどらう――さういふ突飛なおもひつきが更らに彼の郷愁を煽るのだつた。
 ある日、彼は友人から、少年向の単行本の相談をうけた。それは確実な出版社の企画で、その仕事をなしとげれば彼にとつては六ヶ月位の生活が保証される見込だつた。急に目さきが明るくなつて来たおもひだつた。その仕事で金が貰へるのは、六ヶ月位あとのことだから、それまでの食ひつなぎのために、彼は広島の兄に借金を申込むつもりにした。……倉敷の姪たちへの土産ものを買ひながら、彼はなんとなく心が弾んだ。少女の好みさうなものを選んでゐると、やさしい交流が遠くに感じられた。
 ……それは恋といふのではなかつたが、彼は昨年の夏以来、ある優しいものによつて揺すぶられてゐた。ふとしたことから知りあひになつた、Uといふ二十二になるお嬢さんは、彼にとつて不思議な存在になつた。最初の頃、その顔は眩しいやうに彼を戦かせ、一緒にゐるのが何か呼吸苦しかつた。が、馴れるに随つて、彼のなかの苦しいものは除かれて行つたが、何度逢つても、繊細で清楚な鋭い感じは変らなかつた。彼はそのことを口に出して讃めた。すると、タイピストのお嬢さんは云ふのだつた。
「女の心をそんな風に美しくばかり考へるのは間違ひでせう。それに、美はすぐにうつろひますわ」
 彼は側にゐる、この優雅な少女が、戦時中、十文字に襷をかけて挺身隊にゐたといふことを、きいただけでも何か痛々しい感じがした。一緒にお茶を飲んだり、散歩してゐる時、声や表情にパツと新鮮な閃めきがあつた。二十二歳といへば彼が結婚した時の妻の年齢であつた。
「とにかく、あなたは懐しいひとだ。懐しいひととして憶えておきたい」
 神田を引あげる前の晩、彼が部屋中を荷物で散らかしてゐると、Uは窓の外から声をかけた。彼はすぐ外に出て一緒に散歩した。吉祥寺に移つてからは、逢ふ機会もなかつた。が、広島へ持つて行くカバンのなかに、彼はお嬢さんの写真をそつと入れておいた。……ペンクラブの一行とは広島で落合ふことにして彼は一足さきに東京を出発した。

 倉敷駅の改札口を出ると、小さな犬を抱へてゐる女の児が目についた。と、その女の児は黙つて彼にお辞儀した。暫く見なかつた間に小さな姪はどこか子供の頃の妹の顔つきと似てきた。
「お母さんは今ちよつと出かけてゐますから」と、小さな姪は勝手口から上つて、玄関の戸を内から開けてくれた。その座敷の机の上には黄色い箱の外国煙草が置いてあつた。
「どうぞ、お吸ひなさい」と姪はマツチを持つてくると、これで役目をはたしたやうに外に出て行つた。彼は壁際によつて、そこの窓を開けてみた。窓のすぐ下に花畑があつて、スミレ、雛菊、チユーリツプなどが咲き揃つてゐた。色彩の渦にしばらく見とれてゐると、表から妹が戻つて来た。すると小さな姪は母親の側にやつて来て、ぺつたり坐つてゐた。大きい方の姪はまだ戻つて来なかつたが、彼が土産の品を取出すと、「まあ、こんなものを買ふとき、やつぱし、あなたも娯し
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