……乳母車の中に雀のお母さんは漫画の御本やキヤラメルを入れて、怪我をした仔雀を慰めてやりました。雀のお母さんは乳母車を押して青空の中をずんずん進んでゆきます。………」
 再び空二は青空の中を飛んでゆくやうに、うつとりと睡り入つた。

 すつかり睡り入つてゐた空二は婦人に抱へられて乳母車に乗せられた。小山羊の首の鈴がチンチン鳴り、車輪が廻りだしても空二はまだよく睡つてゐた。睡つたまま空二は小さな花束をしつかり掌に握り締めてゐた。その花束は汗ばんだ指から自然に少しづつずりさうになつた。いま、花束はすつぼりと彼の指から滑り落ちた。その拍子に空二はほつと目が覚めてしまつた。見ると、あたりは紫色の靄に包まれてもう薄暗くなつてゐたが、婦人の顔はまだ白くわかつた。やや、冷たい風が睡り足つた空二の頬に快く触れた。
「あああ」と空二は声を出した。
「お寝坊さんの空二さん、もうお目を覚しなさい。もうあそこに雲雀病院のあかりが見えて来ましたよ」
 婦人は母親のやうに空二に話しかけた。彼女が指ざす方向を見ると、なだらかな丘の上にオレンヂ色の灯がぽかりと浮いてゐた。



底本:「定本原民喜全集 1」青土社
   1978(昭和53)年8月1日発行
初出:「文芸汎論」
   1941(昭和16)年6月号
入力:海老根勲
校正:Juki
2004年12月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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