強すぎる真昼の光線で、中国山脈も湾口に臨む一塊の都市も薄紫の朧である。……が、そのうちに、宇品港の輪郭がはつきりと見え、そこから広島市の全貌が一目に瞰下される。山峡にそつて流れてゐる太田川が、この街の入口のところで分岐すると、分岐の数は更に増え、街は三角洲の上に拡がつてゐる。街はすぐ背後に低い山々をめぐらし、練兵場の四角形が二つ、大きく白く光つてゐる。だが、近頃その川に区切られた街には、いたるところに、疎開跡の白い空地が出来上つてゐる。これは焼夷弾攻撃に対して鉄壁の陣を敷いたといふのであらうか。……望遠鏡のおもてに、ふと橋梁が現れる。豆粒ほどの人間の群が今も忙しげに動きまはつてゐる。たしか兵隊にちがひない。兵隊、――それが近頃この街のいたるところを占有してゐるらしい。練兵場に蟻の如くうごめく影はもとより、ちよつとした建物のほとりにも、それらしい影が点在する。……サイレンは鳴つたのだらうか。荷車がいくつも街中を動いてをる。街はづれの青田には玩具の汽車がのろのろ走つてゐる。……静かな街よ、さやうなら。B29一機はくるりと舵を換へ悠然と飛去るのであつた。
琉球列島の戦が終つた頃、隣県の岡山市に大空襲があり、つづいて、六月三十日の深更から七月一日の未明まで、呉市が延焼した。その夜、広島上空を横切る編隊爆音はつぎつぎに市民の耳を脅やかしてゐたが、清二も防空頭巾に眼ばかり光らせながら、森製作所へやつて来た。工場にも事務室にも人影はなく、家の玄関のところに、康子と正三と甥の中学生の三人が蹲つてゐるのだつた。たつたこれだけで、こんな広い場所を防ぐといふのだから、――清二はすぐにそんなことを考へるのであつた。と、表の方で半鐘が鳴り「待避」と叫ぶ声がきこえた。四人はあたふたと庭の壕へ身を潜めた。密雲の空は容易に明けようともせず、爆音はつぎつぎにききとれた。もののかたちがはつきり見えはじめたころ漸く空襲解除となつた。
……その平静に返つた街を、ひどく興奮しながら、順一は大急で歩いてゐた。彼は五日市町で一睡もしなかつたし、海を隔てて向にあかあかと燃える火焔を夜どおし眺めたのだつた。うかうかしてはゐられない。火はもう踵に燃えついて来たのだ、――さう呟きながら、一刻も早く自宅に駈けつけようとした。電車はその朝も容易にやつて来ず、乗客はみんな茫とした顔つきであつた。順一が事務室に現れたのは、朝の陽も大分高くなつてゐた頃であつたが、ここにも茫とした顔つきの睡むさうな人々ばかりと出逢つた。
「うかうかしてゐる時ではない。早速、工場は疎開させる」
順一は清二の顔を見ると、すぐにさう宣告した。ミシンの取りはづし、荷馬車の下附を県庁へ申請すること、家財の再整理、――順一にはまた急な用件が山積した。相談相手の清二は、しかし、末節に疑義を挿むばかりで、一向てきぱきしたところがなかつた。順一はピシピシと鞭を振ひたいおもひに燃立つのだつた。
その翌々日、こんどは広島の大空襲だといふ噂がパツと拡がつた。上田が夕刻、糧秣廠からの警告を順一に伝へると、順一は妹を急かして夕食を早目にすまし、正三と康子を顧みて云つた。
「儂はこれから出掛けて行くが、あとはよろしく頼む」
「空襲警報が出たら逃げるつもりだが……」正三が念を押すと順一は頷いた。
「駄目らしかつたらミシンを井戸へ投込んでおいてくれ」
「蔵の扉を塗りつぶしたら……今のうちにやつてしまはうかしら」
ふと、正三は壮烈な気持が湧いて来た。それから土蔵の前に近づいた。かねて赤土は粘つてあつたが、その土蔵の扉を塗り潰ぶすことは、父の代には遂に一度もなかつたことである。梯子を掛けると、正三はペタペタと白壁の扉の隙間に赤土をねぢ込んで行つた。それが終つた頃順一の姿はもうそこには見えなかつた。正三は気になるので、清二の家に立寄つてみた。「今夜が危いさうだが……」正三が云ふと、「ええ、それがその秘密なのだけど近所の児島さんもそんなことを夕方役所からきいて帰り……」と、何か一生懸命、袋にものを詰めながら光子はだらだらと弁じだした。
一とほり用意も出来て、階下の六畳、――その頃正三は階下で寝るやうになつてゐた、――の蚊帳にもぐり込んだ時であつた。ラジオが土佐沖海面警戒警報を告げた。正三は蚊帳の中で耳を澄ました。高知県、愛媛県が警戒警報になり、つづいてそれは空襲警報に移つてゐた。正三は蚊帳の外に匐ひ出すと、ゲートルを捲いた。それから雑嚢と水筒を肩に交錯させると、その上をバンドで締めた。玄関で靴を探し、最後に手袋を嵌めた時、サイレンが警戒警報を放つた。彼はとつとと表へ飛び出すと、清二の家の方へ急いだ。暗闇のなかを固い靴底に抵抗するアスフアルトがあつた。正三はぴんと立つてうまく歩いてゐる己の脚を意識した。清二の家の門は開け放たれてゐた。
前へ
次へ
全15ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング