前から知り合ひになつた近所の新婚の無邪気な夫妻もたまらなく好意が持てたので、順一が五日市の方へ出掛けて行つて留守の夜など、康子はこの二人を招待して、どら焼を拵へた。燈火管制の下で、明日をも知れない脅威のなかで、これは飯事遊のやうに娯しい一ときであつた。
……本家の台所を預かるやうになつてからは、甥の中学生も「姉さん、姉さん」とよく懐いた。二人のうち小さい方は母親にくつついて五日市町へ行つたが、煙草の味も覚えはじめた、上の方の中学生は盛場の夜の魅力に惹かれてか、やはり、ここに踏みとどまつてゐた。夕方、三菱工場から戻つて来ると、早速彼は台所をのぞく。すると、戸棚には蒸パンやドウナツが、彼の気に入るやうにいつも目さきを変へて、拵へてあつた。腹一杯、夕食を食べると、のそりと暗い往来へ出掛けて行き、それから戻つて来ると一風呂浴びて汗をながす。暢気さうに湯のなかで大声で歌つてゐる節まはしは、すつかり職工気どりであつた。まだ、顔は子供つぽかつたが、躯は壮丁なみに発達してゐた。康子は甥の歌声をきくと、いつもくすくす笑ふのだつた。……餡を入れた饅頭を拵へ、晩酌の後出すと、順一はひどく賞めてくれる。青いワイシヤツを着て若返つたつもりの順一は、「肥つたではないか、ホホウ、日々に肥つてゆくぞ」と機嫌よく冗談を云ふことがあつた。実際、康子は下腹の方が出張つて、顔はいつのまにか廿代の艶を湛へてゐた。だが、週に一度位は五日市町の方から嫂が戻つて来た。派手なモンペを着た高子は香料のにほひを撒きちらしながら、それとなく康子の遣口を監視に来るやうであつた。さういふとき警報が出ると、すぐこの高子は顔を顰めるのであつたが、解除になると、「さあ、また警報が出るとうるさいから帰りませう」とそそくさと立去るのだつた。
……康子が夕餉の支度にとりかかる頃には大概、次兄の清二がやつて来る。疎開学童から来たといつて、嬉しさうにハガキを見せることもあつた。が、時々、清二は、「ふらふらだ」とか「目眩がする」と訴へるやうになつた。顔に生気がなく、焦燥の色が目だつた。康子が握飯を差出すと、彼は黙つてうまさうにパクついた。それから、この家の忙しい疎開振りを眺めて、「ついでに石燈籠も植木もみんな持つて行くといい」など嗤ふのであつた。
前から康子は土蔵の中に放りぱなしになつてゐる箪笥や鏡台が気に懸つてゐた。「この鏡台は枠つくらすといい」と順一も云つてくれた程だし、一こと彼が西崎に命じてくれれば直ぐ解決するのだつたが、己の疎開にかまけてゐる順一は、もうそんなことは忘れたやうな顔つきだつた。直接、西崎に頼むのはどうも気がひけた。高子の命令なら無条件に従ふ西崎も康子のことになると、とかく渋るやうにおもへた。……その朝、康子は事務室から釘抜を持つて土蔵の方へやつて来た順一の姿を注意してみると、その顔は穏かに凪いでゐたので、頼むならこの時とおもつて、早速、鏡台のことを持ちかけた。
「鏡台?」と順一は無感動に呟いた。
「ええ、あれだけでも速く疎開させておきたいの」と康子はとり縋るやうに兄の眸を視つめた。と、兄の視線はちらと脇へ外らされた。
「あんな、がらくた、どうなるのだ」さういふと順一はくるりとそつぽを向いて行つてしまつた。はじめ、康子はすとんと空虚のなかに投げ出されたやうな気持であつた。それから、つぎつぎに憤りが揺れ、もう凝としてゐられなかつた。がらくたといつても、度重なる移動のためにあんな風になつたので、彼女が結婚する時まだ生きてゐた母親がみたててくれた記念の品であつた。自分のものになると箒一本にまで愛着する順一が、この切ない、ひとの気持は分つてくれないのだらうか。……彼女はまたあの晩の怕い順一の顔つきを想ひ浮かべてゐた。
それは高子が五日市町に疎開する手筈のできかかつた頃のことであつた。妻のかはりに妹をこの家に移し一切を切廻さすことにすると、順一は主張するのであつたが、康子はなかなか承諾しなかつた。一つには身勝手な嫂に対するあてこすりもあつたが、加計町の方へ疎開した子供のことも気になり、一そのこと保姆になつて其処へ行つてしまはうかとも思ひ惑つた。嫂と順一とは康子をめぐつて宥めたり賺せたりしようとするのであつたが、もう夜も更けかかつてゐた。
「どうしても承諾してくれないのか」と順一は屹となつてたづねた。
「ええ、やつぱし広島は危険だし、一そのこと加計町の方へ……」と、康子は同じことを繰返した。突然、順一は長火鉢の側にあつたネーブルの皮を掴むと、向の壁へピシヤリと擲げつけた。狂暴な空気がさつと漲つた。
「まあ、まあ、もう一ぺん明日までよく考へてみて下さい」と嫂はとりなすやうに言葉を挿んだが、結局、康子はその夜のうちに承諾してしまつたのであつた。……暫く康子は眼もとがくらくらするやうな状態で家
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