袂や辻々に銃剣つきの兵隊や警官が頑張つた。彼等は弱い市民を脅迫して、あくまでこの街を死守させようとするのであつたが、窮鼠の如く追ひつめられた人々は、巧みにまたその裏をくぐつた。夜間、正三が逃げて行く途上あたりを注意してみると、どうも不在らしい家の方が多いのであつた。
 正三もまたあの七月三日の晩から八月五日の晩――それが最終の逃亡だつた――まで、夜間形勢が怪しげになると忽ち逃げ出すのであつた。……土佐沖海面、警戒警報が出るともう身支度に取掛る。高知県、愛媛県に空襲警報が発せられて、広島県、山口県が警戒警報になるのは十分とかからない。ゲートルは暗闇の中でもすぐ捲けるが、手拭とか靴篦とかいふ細かなもので正三は鳥渡手間どることがある。が、警戒警報のサイレン迄にはきつと玄関さきで靴をはいてゐる。康子は康子で身支度をととのへ、やはりその頃、玄関さきに来てゐる。二人はあとさきになり、門口を出て行くのであつた。……ある町角を曲り、十歩ばかり行くと正三はもう鳴りだすぞとおもふ。はたして、空襲警報のものものしいサイレンが八方の闇から喚きあふ。おお、何といふ、高低さまざまの、いやな唸り声だ。これは傷いた獣の慟哭とでもいふのであらうか。後の歴史家はこれを何と形容するだらうか。――そんな感想や、それから、……それにしても昔、この自分は街にやつて来る獅子の笛を遠方からきいただけでも真青になつて逃げて行つたが、あの頃の恐怖の純粋さと、この今の恐怖とでは、どうも今では恐怖までが何か鈍重な枠に嵌めこまれてゐる。――そんな念想が正三の頭に浮かぶのも数秒で、彼は息せききらせて、堤に出る石段を昇つてゐる。清二の家の門口に駈けつけると、一家揃つて支度を了へてゐることもあつたが、まだ何の身支度もしてゐないこともあつた。正三がここへ現れるのと前後して康子は康子でそこへ駈けつけて来る。……「ここの紐結んで頂戴」と小さな姪が正三に頭巾を差出す。彼はその紐をかたく結んでやると、くるりと姪を背に背負ひ、皆より一足さきに門口を出て行く。栄橋を渡つてしまふと、とにかく吻として足どりも少し緩くなる。鉄道の踏切を越え、饒津の堤に出ると、正三は背負つていた姪を叢に下ろす。川の水は仄白く、杉の大木は黒い影を路に投げてゐる。この小さな姪はこの景色を記憶するであらうか。幼い日々が夜毎、夜毎の逃亡にはじまる「ある女の生涯」といふ小説が
前へ 次へ
全30ページ中24ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング