物理的作用の下にあるだけのことのやうにおもへた。珍しい男だな、と正三は考へた。だが、このやうな好漢ロボツトなら、いま日本にはいくらでもゐるにちがひない。
順一は手ぶらで五日市町の方へ出向くことはなく、いつもリユツクにこまごました疎開の品を詰込み、夕食後ひとりいそいそと出掛けて行くのであつたが、ある時、正三に「万一の場合知つてゐてくれぬと困るから、これから一緒に行かう」と誘つた。小さな荷物持たされて、正三は順一と一緒に電車の停留場へ赴いた。己斐行はなかなかやつて来ず、正三は広々とした道路のはてに目をやつてゐた。が、そのうちに、建物の向にはつきりと呉娑娑宇山がうづくまつてゐる姿がうつつた。
それは今、夏の夕暮の水蒸気を含んで鮮かに生動してゐた。その山に連らなるほかの山々もいつもは仮睡の淡い姿しか示さないのに、今日はおそろしく精気に満ちてゐた。底知れない姿の中を雲がゆるゆると流れた。すると、今にも山々は揺れ動き、叫びあはうとするやうであつた。ふしぎな光景であつた。ふと、この街をめぐる、或る大きなものの構図が、このとき正三の目に描かれて来だした。……清冽な河川をいくつか乗越え、電車が市外に出てからも、正三の眼は窓の外の風景に喰入つてゐた。その沿線はむかし海水浴客で賑はつたので、今も窓から吹き込む風がふとなつかしい記憶のにほひを齎らしたりした。が、さきほどから正三をおどろかしてゐる中国山脈の表情はなほも衰へなかつた。暮れかかつた空に山々はいよいよあざやかな緑を投出し、瀬戸内海の島影もくつきりと浮上がつた。波が、青い穏かな波が、無限の嵐にあふられて、今にも狂ひまはりさうに想へた。
正三の眼には、いつも見馴れてゐる日本地図が浮んだ。広袤はてしない太平洋のはてに、はじめ日本列島は小さな点々として映る。マリアナ基地を飛立つたB29の編隊が、雲の裏を縫つて星のやうに流れてゆく。日本列島がぐんとこちらに引寄せられる。八丈島の上で二つに岐れた編隊の一つは、まつすぐ富士山の方に向かひ、他は、熊野灘に添つて紀伊水道の方へ進む。が、その編隊から、いま一機がふわりと離れると、室戸崎を越えて、ぐんぐん土佐湾に向つてゆく。……青い平原の上に泡立ち群がる山脈が見えてくるが、その峰を飛越えると、鏡のやうに静まつた瀬戸内海だ。一機はその鏡面に散布する島々を点検しながら、悠然と広島湾上を舞つてゐる。
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