いよいよ疎開だ」
「ふん、さういふことになつたのか。してみると、広島は東京よりまづ三月ほど立遅れてゐたわけだね」正三が何の意味もなくそんなことを呟くと、
「それだけ広島が遅れてゐたのは有難いと思はねばならぬではないか」と清二は眼をまじまじさせて、なほも硬い表情をしてゐた。
……大勢の子供を抱へた清二の家は、近頃は次から次へとごつたかへす要件で紛糾してゐた。どの部屋にも、疎開の衣類が跳繰りだされ、それに二人の子供は集団疎開に加はつて近く出発することになつてゐたので、その準備だけでも大変だつた。手際のわるい光子はのろのろと仕事を片づけ、どうかすると無駄話に時を浪費してゐる。清二は外から帰つて来ると、いつも苛々した気分で妻にあたり散らすのであつたが、その癖、夕食が済むと、奥の部屋に引籠つて、せつせとミシンを踏んだ。リユツクサツクを縫ふのであつた。しかし、リユツクなら既に二つも彼の家にはあつたし、急ぐ品でもなささうであつた。清二はただ、それを拵へる面白さに夢中だつた。「なあにくそ、なあにくそ」とつぶやきながら、針を運んだ。「職人なんかに負けてたまるものか」事実、彼の拵へたリユツクは下手な職人の品よりか優秀であつた。
……かうして、清二は清二なりに何か気持を紛らし続けてゐたのだが、今日、被服支廠に出頭すると、工場疎開を命じられたのには、急に足許が揺れだす思ひがした。それから帰路、竹屋町辺まで差しかかると、昨日まで四十何年間も見馴れた小路が、すつかり歯の抜けたやうになつてゐて、兵隊は滅茶苦茶に鉈を振るつてゐる。廿代に二三年他郷に遊学したほかは、殆どこの郷土を離れたこともなく、与へられた仕事を堪へしのび、その地位も漸く安定してゐた清二にとつて、これは堪へがたいことであつた。……一体全体どうなるのか。正三などにわかることではなかつた。彼は、一刻も速く順一に会つて、工場疎開のことを告げておきたかつた。親身で兄と相談したいことは、いくらもあるやうな気持がした。それなのに、順一は順一で高子のことに気を奪はれ、今は何のたよりにもならないやうであつた。
清二はゲートルをとりはづし、暫くぼんやりしてゐた。そのうちに上田や三浦が帰つて来ると、事務室は建物疎開の話で持ちきつた。「乱暴なことをする喃。ちうに、鋸で柱をゴシゴシ引いて、縄かけてエンヤサエンヤサと引張り、それで片つぱしからめいで行く
前へ
次へ
全30ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング