幅の日蔭を争つて、両手片足を捩がれた男と全身血達磨の青年が低い声で唸りあつてゐる。あのとき、見た数々の言語に絶する光景はまだ彼にとつて終結したのではなかつた。……彼は避難民のやうな恰好で、若い甥と話し合ふのだが、この甥と話しあふとお互にもやもやしたものが燃え上つた。
「まるで、とにかく、今では生きてゆくことが吹き晒しの中にまる裸にされてゐるやうな感じがするな」
「だけど、君はまだ帰つて行ける処があるが、僕はもう、あの日から地上の生存権を剥奪されたのだ」
 すると、甥は何か不満さうに彼の言葉に抗議しだした。「そいつは少々言ひすぎだよ。とにかく、あんなひどい目に遇ひながら今日まで生きのびて来られたのは、やはり感謝していいだらう」
 甥は九州の連隊にゐたため惨劇には遭はなかつた。家の焼跡にもその後バラツクが建てられたので、とにかく身を容れる最後の場所だけはあつた。ところが彼の方は今もまだ身一つで逃げ惑つてゐる形だつた。……夢中で全速力で彼は走つてゐるつもりなのだが、忽ち条件が怪物の如く彼の行手を塞ぐ。かと思ふと、血走つた彼の眼には、突然一切がだらけ切つてどうにもならぬ愚劣の連続となる。……炎天の下、今にもつんのめりさうな、ふわふわに腫れ上つた火傷患者に附添つて、彼は立つてゐる。重傷者の列は蜿蜒と続いてゐるが、施療の順番は殆ど無用の手続のため、できるかぎり延期されてゐる。……銀行、郵便局、町会事務所、食糧営団、いたるところの窓口が奇妙な手続で弱者の嘆願を拒んだ。無器用な彼は到る処で悪意に包囲されてゐるやうにおもへた。それは予想を裏切り想像を絶した形で突如出現する。
(……ある瞬間、ある瞬間を境に、地上の凡ては変形してしまつた。到る処に、いたるところに人間が満ち溢れ、もう何処でも食事を摂ることも身を横たへることも困難になる。更に人間の増えてゆく予感がこの時ぞくぞくと彼を脅かし、「逃げよ、逃げよ、今度こそ失敗るな」といふ声がする。だが、彼は今暫らく情況を確かめた上でと躊躇つてゐる。そのうちにも人間はぐらぐらと増えてゆく。今はもう呼吸をすることすら困難になつた。切羽詰つて無我夢中で左右の人間を押しのけ、鉄道線路めがけて逃げ出す。が、線路のところは、ここはもう先を争ふ人々で身動きもならない。ふらふらになりながら列に押され、列をくぐり抜け、どうにかかうにか、今突進してくる急行列車目が
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