それから……、それらは……。この奇妙な着想とともに、その魔力が既にぞくぞく彼の肉体に影響してくるやうな錯覚と、それから、いつも彼の脳裏にある、あの広島の体験と、こんどの音楽爆弾の予感がひどく混乱して、何か制しきれない苦悩を叫んでゐた。
……アダム
突然、一つの名称が奇蹟のやうに浮んだ。それは嘗て酸鼻と醜怪をきはめた虚無の拡がりの中に、底抜けの静謐を湛へてゐる青空を視たとき、不意と彼の念頭に浮び、それきり発展しなかつたアイデアであつたが、その名称が今何か救済のやうに思ひ出された。
(さうだ、アダム……。音楽爆弾の空想は君にまかせよう。君はあの死体の容積が二三倍に膨脹し、痙攣がいたるところに配列されてゐるシインのなかから、ぽつかりと夢のやうに現れたイメージだつた。君の名はアダム……だが君の名をいま僕はニユー・アダムと呼びたい。音楽爆弾でも何でもいいから勝手に勝手な空想をしてくれ給へ。いづれ僕はそいつも小説に書かうと思ふから、これからは時々やつて来てくれ給へ。だが今は僕はかうして街なかを歩いてゐるのだし、日常生活の姿勢でゐなければ、どうも困るのだ。)
さういふ会話を仮想人物に与へると、さきほどまで彼を苦しめてゐた感覚は次第に緩められて行つた。漸く普通人の気分に戻ると、彼は吻として切符売場の行列に加はつてゐた。
毎朝、彼はニユー・アダムの囁に悩まされだした。それを彼は次のやうにノートに書きしるした。
「顔を洗つたり、外食をすませてくる間に、一ダース位の小さな念想が泡立つてくる。素敵だ、ノートに書きとめてやらう、と直ぐペンをとりたい思ひに駆られながらも、目さきの用件に追はれてゐる。漸くつまらぬ用が済んで朝の部屋に落着くと、さきほどの念想は高い梢にとまつた目白のやうに、チラチラとこちらを嘲つてゐる。
君たちを捉まへて、小器用にまとめれば、君たちはノートのなかで晴れやかに囀るだらう。だが、君たちを飛ばしたり囀らす母なる大地とその秘密の方が、もつとも僕を悩ましてゐるのだ。見給へ、僕の部屋は頗る無器用に朝の宇宙に突立つてゐる。……」
彼の部屋は神田のある事務所の二階にあつたが、朝から晩まで騒音攻めにされてゐた。半年あまり部屋がないため、さんざ悩まされた揚句、漸くその事務所の一室に転がり込んで来たのだが、何ものかに追ひ詰められてゐる気持は今もまだ附纏つてゐた。
「悪意ある
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