もう戻らないと宣言した友からの手紙だつたが、異常な悲壮が揺れうごいてゐた。あの男が揺れうごいてゐるのか、この地球が揺れうごいてゐるのか……。凝と考へてゐると、茫漠とした巨大な感覚が彼を呑込んでしまはうとするのだつた。
休暇があけて甥が中野へ戻つて来ると、彼は再び緊迫した気持に戻つた。数少ない知人の間を廻つては、貸間のことを頼んだが、「さあ、部屋はね……」と誰もこれには確答ができなかつた。だが、焼跡には少しづつバラツクが建つてゐた。いつも彼は電車の窓から燃えるやうな眼ざしでそれを眺めた。鋏とボール紙で瞬く間に一都市が出来上つてゆく、映画のなかの素晴しい情景は、眼の前にある切ない夢とごつちやになつた。……ある日、藁にもとり縋る気持で、先輩を訪ねてみた。貸間の権利金について相談を持ちかけると、「いやあ、そいつはね……」と、もの柔かに断られた。徒労だつたと分ると彼はさばさばした気持で、この失敗を甥に打ちあけた。
「なるほどね、今となつては誰も僕のやうな者を相手にしてくれないのが当前だつた」
絶望と滑稽感が犇きあつた。ふと彼はまた、もう一つの藁を夢みるやうに口走つた。
「広島の土地は、あれはどうしても売れないものかしら」
それは前から兄たちに問合せたり、甥にも訊ねてゐたが、焼跡の都市計画が進捗しないため、何とも判断できないのだつたが、何も彼も剥ぎ奪つてしまふ怪物が既にその土地を呑込んでゐたとしても彼は差程驚かなかつたかもしれない。
「うん、近頃、畳一枚の値段で売買されてるよ」
甥の意外な言葉で、彼は急に眼を輝かしだした。
「畳、一枚、それでは……」
それでは、とにかく、彼の所有地を売却すれば今後一年位は生きのびて行けさうな計算だつた。
「助かつた、助かつた、それでは……」
おかしい程、彼はいきいきと興奮してゐた。身代金が出来たのだつた。そいつを怪物の口に投げ与へて置けば、相手の追撃からまだまだ、ずらかつて行ける。生きのびよう、生きのびよう、(しかし、何のために?)しかし、とにかく生きのびて行きたかつた。
そのうちに医学生も戻つて来た。「済みません、済みません、極力部屋を探してはゐますが」と彼は今暫くの猶予を哀願するばかりだつた。甥の顔には繊細な心づかひが漲つた。……踵まで火がついたやうな気持で、彼はいらいらと歩き廻つた。夕刊を買はうと思つて並んだ行列が、急にその
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