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 燃え狂う真紅の焔《ほのお》が鎮《しず》まったかとおもうと、やがて、あの冷たい透き徹《とお》った不思議な焔がやって来た。飢餓の焔だ。兄の一家族や寡婦の妹と一緒に農家に避難した僕は、それから後、絶えずこのしぶとい悲しい焔に包囲されていた。それは台所の汚れかえった畳の上でも、煤《すす》けた穴だらけの障子の蔭《かげ》でもめらめらと燃えた。それから青田の上でも、向うに見える山の上でもめらめらと透き徹る焔はゆらいだ。空間が小刻みに顫《ふる》えて、頭の芯《しん》が茫《ぼう》として来る。このような時――人間は何を考えるのか――このような時、人間は人間の……人間の白い牙《きば》がさっと現れた。妹と嫂《あによめ》は絶えず何ごとか云って争っていた。
「口惜《くや》しくて、口惜しくて、あの嫁を喰《く》いちぎってやりたい」
 飢えてはいない隣家の農婦が庭さきで歯ぎしりしていた。その言葉は、しかし、ぴしりと僕を打った。喰いちぎってやりたい……人間が人間を喰いちぎる……一瞬にして変貌《へんぼう》する女の顔がパッと僕のなかで破裂したようだった。
 悲しげな無数の焔に包囲されて、僕が身動きもできないでいる時、しかし、人々は軽ろやかに動いていた。爆心地で罹災《りさい》して毛髪がすっかり脱けた親戚《しんせき》の男は、田舎《いなか》の奥で奇蹟《きせき》的に健康をとり戻し、惨劇の年がまだ明けないうちに、田舎から新しい細君を娶《めと》った。無数の変り果てた顔の渦巻いていた廃墟《はいきょ》を、無数の生存者が歩き廻った。廃墟の泥濘の上の闇市《やみいち》は祭日のようであった。人々はよろめきながら祭日をとり戻したのだろうか。僕もよろめきながら見て歩いた。今にもぶっ倒れそうな痩男《やせおとこ》がひらひらと紙幣を屋台に差出し、手で把《つか》んだものをもう口に入れていた。めらめらとゆらぐ焔は到《いた》る処《ところ》にあった。復員者はそこここに戻って来て、崩壊した駅は雑沓して賑《にぎ》わった。その妻子を閃光《せんこう》で攫《さら》われた男は晴着を飾る新妻《にいづま》を伴って歩いていた。速《すみ》やかに、軽ろやかに、何気なく、そこここに新しい巣が営まれた。
「もう決して何も信じません。自分自身も……」
 罹災を免れ家も壊《こわ》されなかった中年女は誇らかに嘯《うそぶ》くのだが。……
 寡婦の妹は絶えず飢餓からの脱出を企てていた。リュックを背負う面窶《おもやつ》れした顔は、若々しい力を潜め、それが生きてゆくための最後の抗議、堕ちて来る火の粉を払おうとする表情となっていた。だがどうかすると、それは血まみれの亡者の面影に見入って、キャッと叫ぶ最後の眼の色になっている。悶《もだ》え苦しむ眼つきで、この妹が僕に同情してくれると僕はぞっとした。たしかにその眼は、もうあの白骨の姿を僕のうちに予想する眼だった。
 だが、その年が明けると、その妹にも急に再縁の話が持ち上っていた。その話をはじめてきいた日、僕は村の入口の橋のところで、リュックを背負ってやって来る妹とぱったり出逢った。立話をしているうちに僕はふと涙が滲《にじ》んで来た。(涙が? それは後で考えてみると、人間一人飢死を免れたのを悦《よろこ》ぶ涙らしかった。)だが、その僕はまだ助かってはいなかった。焔は迫って来た。滅茶苦茶にあがき廻った挙句、僕は東京の友人のところへ逃げ込んだ。
 だが、僕を迎えてくれた友人の家も忽ち不思議な焔に包囲された。飢餓の火はじりじりと燻《くす》んで、人間の白い牙はさっと現れた。一瞬にして、人間の顔は変貌する。人間は一瞬の閃光《せんこう》で変貌する。長い長い不幸が人間を変貌させたところで、何の不思議や嘆きがあろう。――日夜、その家の細君のいかつい顔つきに脅えながら僕はひとり心に囁いていた。
 紅の衣服に育てられし者も今は塵堆《じんたい》を抱く……乞食《こじき》のような足どりで、僕は雑沓のなかや、焼跡の路を歩いた。焼跡の塵堆に僕の眼はくらくらし、ひだるい膝《ひざ》は前につんのめりそうだった。と頭上にある青空が、さっと透き徹って光を放つ。(この心の疼《うず》き、この幻想のくるめき)僕は眼も眩《くら》むばかりの美しい世界に視入《みい》ろうとした。
 それから、僕を置いてくれていたその家の主人は、ある日旅に出かけると、それきり帰って来なかった。暫くして、その友人は旅先で愛人を得ていて、もう東京へは戻って来ないことが判《わか》った。それから僕はその家を立退《たちの》かねばならなかった。それから僕は宿なしの身になっていたのだが、それから……。苦悩が苦悩を追って行く。――つみかさなる苦悩にむかって跪《ひざまず》き祈る女がいた。
「一度わたしは鏡でわたしの顔を見せてもらった。あれはもうわたしではなかった。わたしではない顔のわたしがそんなにもう怕《こわ》くはなかった。怕いということまでもうわたしからは無くなっているようだ。わたしが滅びてゆく。わたしの糜爛《びらん》した乳房や右の肘《ひじ》が、この連続する痛みが、痛みばかりが、今はわたしなのだろうか。
 あのときサッと光が突然わたしの顔を斬《き》りつけた。あっと声をあげたとき、たしかわたしの右手はわたしの顔を庇《かば》おうとしていた。顔と手を同時に一つの速度が滑《すべ》り抜けた。あっと思いながらわたしはよろめいた。倒れてはいないのがわかった。なにかが走り抜けたあとの速さだけがわたしの耳もとで唸《うな》る。わたしの眼は、わたしが眼をあけたとき、濛々《もうもう》としているものが静まって、崩れ落ちたものがしーんとしていた。どこかで無数の小さな喚《わめ》きが伝わってくる。風のようなものは通りすぎていたのに、風のようなものの唸りがまだ迫ってくる。あのとき、すべてはもう終っているのだ。だのに、これから何か始りそうで、そわそわしたものがわたしのなかで揺れうごいた。……」
「火の唇」の書きだしを彼はノートに誌《しる》していたが、惨劇のなかに死んでゆくこの女性は一たい誰なのか、はっきりしなかった。が、独白の囁きは絶えず聞えた。永遠の相《すがた》に視入りながら、死の近づくにつれて、心の内側に澄み亘《わた》ってくる無限の展望。……突如、生の歓喜が、それは電撃の如《ごと》くこの女を襲い、疾風よりも烈《はげ》しくこの女を揺さぶる。まさに、その音楽はこの女を打砕こうとする。ああ、一人の女の胸に、これほどの喜びが、これほどの喜びが許されていていいので御座いましょうか、と、その女は感動している自分に感涙しながら跪く。と、時は永遠に停止し、それからまたゆるやかに流れだす。
 こんな情景を追いながらも、彼は絶えず生活に追詰められていた。それから長く休刊だった雑誌が運転しだすと急に気忙《きぜわ》しさが加わった。雑誌社は何時《いつ》出かけて行っても、来訪者が詰めかけていたし、原稿は机上に山積していた。いろんな人間に面会したり、雑多な仕事を片づけてゆくことに何か興奮の波があった。その波が高まると、よく彼は「人間が人間を揉《も》み苦茶《くちゃ》にする」と悲鳴をあげた。
(人間が人間を……。昔、僕は人間全体に対して、まるで処女のように戦《おのの》いていた。人間の顔つき、人間の言葉・身振・声、それが直接僕の心臓を収縮させ、僕の視野を歪めてふるえさせた。一人でも人間が僕の眼の前にいたとする、と忽ち何万ボルトの電流が僕のなかに流れ、神経の火花は顔面に散った。僕は人間が滅茶苦茶に怕《こわ》かったのだ。いつでもすぐに逃げだしたくなるのだった。しかも、そんなに戦き脅《おび》えながら、僕はどのように熱烈に人間を恋し理解したく思っていたことか)
 ところが今では、今でも僕が人生に於《おい》てぎこちないことは以前とかわりないが、それでも、人間と会うとき前とは違う型が出来上ってしまった。僕が誰かと面談しようとする。僕は僕のなかにスイッチを入れる。すると、さっと軽い電流が僕に流れ、するとあとはもう会話も態度も殆どオートマチックに流れだすのだ。これはどうしたことなのだ? 僕は相手を理解し、相手は今僕を知っていてくれるのだろうか――そういう反省をする暇もなく、僕の前にいる相手は入替り時間は流れ去る。そして深夜、僕にはいろんな人間のばらばらの顔や声や身振がごっちゃになって朧《おぼろ》な暈《かさ》のように僕のなかで揺れ返る。僕はその暈のなかにぼんやり睡《ねむ》り込んでしまいそうだ。と突然、戦慄《せんりつ》が僕の背筋を突走る。
「いけない、いけない、あの向うを射抜け」
 何万ボルトの電流が叫びとなって僕のなかを疾駆するのだ。
(人間が人間を……。その少女にとって、まるで人間一個の生存は恐怖の連続と苦悶《くもん》の持続に他《ほか》ならなかった。すべてが奇異に縺《もつ》れ、すべてが極限まで彼女を追詰めてくる。食事を摂《と》ることも、睡ることも、息をすることまで、何もかも困難になる。この幼い切ない魂は徒《いたず》らに反転しながら泣号する。「生きていること、生きていることが、こんなに、こんなに辛《つら》い」と……。ところが、ある時、この少女の額に何か爽《さわ》やかなものが訪れる。それから向側にぽっかりと新しい空間が見えてくる)
「火の唇」のイメージは揺らぎながら彼のなかに見え隠れしていた。そのうち仕事の関係で彼は盛場裏の酒場や露次奥の喫茶店に足を踏み入れることが急に増《ふ》えて来た。すると、アルコールが、それは彼にとって戦後はじめてと云っていいのだったが、彼の眼や脳髄に沁《し》みてゆき、夜の狭い裏通りには膨《ふく》れ上ってゆらぐ空間が流れた。……彼の腰掛けている椅子のすぐ後を奇妙な身なりの少年や青年がざわざわと揺れて動く。屋台では若い女が一つのアクセントのように絶えず身動きしながら、揺れているものに取まかれている。眼はニスを塗ったようにピカピカし、ルージュで濡《ぬ》れた唇《くちびる》は血のようだ。あれが女の眼であり、唇かと僕はおもう。揺れているガス体は今にも何かパッと発火しそうだ。だが、僕の靴底を奇妙に冷たいものが流れる。どうにもならぬ冷たいものが……。あの女も恐らく炎々と燃える焔に頬《ほお》を射られ、跣《はだし》で地べたを走り廻ったのか。今も何かを避けようとしたり、何かに喰らいつこうとするリズムが、それも揺れている。めらめらと揺れている。それにしても、僕の靴底を流れてゆく冷たいものは……。ふと、彼の腰掛のすぐ後に、ふらふらの学生が近寄ってくる。自分の上衣《うわぎ》のポケットからコップを取出し、それに酒を注《つ》いでもらっている。
「いいなあ、いいなあ、人間が信じられたらなあ」とその学生は甘ったれた表情でよろよろしている。冷たいものはざわざわとゆれる。火が、火が、火が、だが、火はもうここにはなさそうだ。火事場の跡のここは水溜《みずたま》りなのか。
 水溜りを踏越えたかと思うと、彼の友人が四つ角のもの蔭《かげ》で「夜の女」と立話している。それからその女は黙って二人の後をついて来る。薄暗い喫茶店の隅《すみ》に入る。(どうして、そんな「夜の女」などになったのです)親切な友人は女に話しかけてみる。(家があんまり……家では暮らせないので飛出しました)小さないじけた鼻頭が、ひっぱたけ、何なりとひっぱたけと、そのように、そのように、歪《ゆが》んだように彼の目にうつる。それからテーブルの下にある女の足が、その足に穿《は》いている佗《わび》しい下駄が、ふと彼の眼に触れる。あ、下駄、下駄、下駄……冷たいものの流れが……(じゃあお茶だけで失敬するよ)親切な友人は喫茶店の外で女と別れる。おとなしい女だ。そのまま女は頷《うなず》いて別れる。
 それからまた、ある日は、この親切な友人が彼を露次の奥の喫茶店へ連れて行く。と、テーブルというテーブルが人間と人間の声で沸騰している。濛々と渦巻く煙草の煙のなかから、声が、顔が、わざとらしいものがねちこいものが、どうにもならないものが、聞え、見え、閃くなかを、腫《は》れぼったい頬のギラギラした眼の少女が
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