を見渡して吃驚した。窓から斜に差込んでくる光線のために、薄暗い天井の下に犇めく顔は殆どすべて歪んでゐた。労苦に抉りとられた筋肉と煤けた皮膚と頭髪が入乱れて、粗末な服装のなかに渦巻いてゐる。一瞬、僕は奇怪な油絵のなかに坐つてゐるやうな気がした。
僕はこの外食食堂でいつとなしに、その顔を見憶えてしまつた青年と舗道で擦れちがふたびに、何となく微かに忌々しい気持にされる。その青年が長い縮れた髪をしてゐることと、洋服の色が華美に明るいことが僕の注意を惹くくらゐなのだが、それでは何も相手を厭ふ理由にはなりさうにない。だが、僕は彼が僕と同じ場所で同じ時刻に似たやうな食事を摂つてゐるといふことが、それだけのことが、ふと堪らなく厭はしくなるのだ。僕のなかには今でも何かを激しく拒否したがる子供らしい傾向が潜んでゐるのだ。だから僕はテーブルの向うでいつも縮こまつて箸を動かしてゐる傴僂男を見ると、やはり微かに気に喰はない感情が湧いて来る。だが、僕はあるとき、その傴僂男が汗みどろでリヤカーを牽いてゐる姿を路上で見てハツとした。僕のなかにまだ残つてゐる子供らしい核心は粉砕されさうになつた。どのやうに僕が今激しく外界を厭はうと、外界の方がもつと激しく僕を拒否するかもしれないのだ。
僕は金物屋の軒先を通りかかつて、目に入る品物にふと不安を感じる。あんなに沢山の食器類はやがて、それぞれ何処かの家の戸棚に収まるのだらう。が、僕にはもうそれらの食器類の名称がわからなくなつたやうな気さへする。アルマイト……ニツケル……無理矢理に僕は何か忘れかけたものを憶ひ出さうとしてみる。だが、何かが僕から滑り墜ちるのだ。お前が生きてゐた頃、僕は何の不安もなく、家のなかの什器類にとり囲まれてゐた。久しい間、僕には家のなかにある品物の名称も形状もすつかりあたりまへのことになつてゐた。今になつて、僕はあのおびただしい器具や衣類が夢のやうにおもへる。焼けて灰になつてしまつた、それらの夢は、もうどこにも収まりやうはないのだ。
だから、それらの夢はぼんやりと空気のなかに溶けて、地上を流れてうごいてゆく。お前と死別れてから、「家」といふものを喪つてから、この地上を流転してゐる僕には、おびただしく流れ動いてゐるものを空白のなかに見おくるばかりなのだ。だけど、今でもやはり、この地上には無数の家が存在して、その軒下では無数の憂鬱と
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