た。僕は立どまつてしまつた。急に何も彼も冷んやりとしてゐた。その頃から僕は置き去りにされた子供だつた。
僕は夕方、外食へ出掛けて行く途中のごたごたした路上で、「一番星みつけた」といふ優しい単純な声を聞いた。すると僕のなかで、ごつた返してゐる思念がふと水を打つたやうに静まつて来た。星はいつの世にも夕ぐれ現れ、子供はいつの日にもそれを見つけて悦ぶのだらうか。それから僕は路ばたの莚の上に坐つて遊んでゐる女の子のほとりを何気なく通りすぎた。そのあたりはまだ明るかつた。と、何か美しいものがチラと僕の眼を掠めたやうだ。見ると筵の紙の上には小さく引裂かれた蜜柑の皮が釦か何かのやうに綺麗に並べてあるのだつた。(だが、こんなものを見てすぎて行く僕は空漠たる旅人なのだらうか。)
僕がはじめて郷里の家を離れて旅に出たのは、もう遠い昔の春のことだつた。東京の裏街の下宿の狭い部屋で、僕ははじめて、たつた一人になつたやうな気がしたものだ。だが、その部屋の窓から見える隣の黒い板塀に春の陽ざしは柔かく降灑いでゐて、狭い庭の面には青い草が萌えてゐた。僕は柔かい優しい空気につつまれて、あやされてゐるやうな気持がした。たつた一人にはなつたが、郷里の家には母や妹が僕のことを思つてゐてくれた。僕はその頃やさしいものに支へられて、のびのびと呼吸づいてゐるのが分つた。だが、何か感じ易い心がやがて遠くから訪れてくる激変をひそかに描いてはゐた。その予感とても僕は挫きはしなかつた。僕は運命を素直に受け入れて人生を味ひたかつた。それほどまだ体験に憧れてゐる少年だつたのだ。
僕はその下宿の部屋の電燈の下でバルビユスの「地獄」を読んだ。生温かい静かな晩だつた。僕は柔かい壁にとり囲まれてゐるやうだつた。だが、その物語の人物は巴里の荒涼とした下宿の一室で独り深淵を視つめてゐるのだつた。そのひとり暮しの全く孤独の彼には子供が無かつた。だから、もし彼が死んでしまへば、人類の生存以来続いて来た一つの点線が彼のところで、ぱたりと杜切れてしまふことになる。この空白の想定は彼を何か慄然とさすのだつた。体験に憧れてゐる少年の僕もそこから底なしの風穴が覗き込むやうな気がしたものだ。
学生の僕はその頃、不思議な男と友達になつてしまつた。(これは今でも遠くから僕を揺さぶる不思議な人間像なのだが、……)はじめて僕が彼と知りあひになつた頃
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