つの夢を托しておきたかつたのだらうか。
 あの家の二階の北側にある小さな窓からは、いつも漆黒の夜空が覗き込んでゐた。あの窓を開け立てするたびに発する微妙な軋みまで僕には外から覗き込んでゐるものと関連があるやうな気がしたものだ。死んだ姉はよく星のことを話してくれた。姉の眼のなかには深淵に脅えるものと憧れるものとが混りあつてゐたやうだ。しーんとした狭い部屋だつた。少年の僕にはその部屋の上の屋根をめくつて展がつてゐる無限の世界が、じーんと響いてきさうだつた。あの頃から何か不思議なものが僕を魅して僕を覗き込んでゐたのではないだらうか。……お前は知つてゐてくれるだらう。子供の僕がどのやうに烈しく美しいものに憧れたか。てんたう虫の翅の模様、桜桃の光沢、しやぼん玉に映る虹、そんなものを見ただけで、僕の魂はいきなり遠いところへ彷徨つて行つた。僕の眼は美しい色彩にみとれ、頭の芯まで茫としてゐた。子供の僕には美の秘密につつまれた世界だけが堪らなかつたのだ。(だから、僕がお前のなかに一番切実に見ようとしたのは、子供の時の郷愁だつたかもしれない。)
 ときどき僕はこの街なかの雑沓のなかで、お前の幼年時代に似てゐる女の子をちらつと見かけることがある。きちんとした、そして少し悲しさうでさへある、小さな女の子の顔を見ると、あそこにまだお前は成長してゐるのではないかしらとおもふ。それから僕はお前が嘗て夢に描いてゐた子供のことをおもひだす。野つぱらを飛び廻つて跳ね廻つて、見るからに幸福さうな、子供であることの幸福を全身に湛へてゐる子供のことを……、そんな子供は今も何処かこの地上にゐて、やはり成長してゐるのだらうか。
 僕は歩きながら自分の靴音が静かに整つてゐるのを感じる。電車通りから横に折れて、一米幅の小路に入ると、両側の高い建物の上に見える青空がくつきりと美しい。ほんとに、こんな美しい青空が街なかに存在してゐるのだらうか。だが僕は知つてゐる。殆ど餓死に近い状態で焼跡をよろめき歩いたとき、あのときも、天の高みから、さつと洩れて来る不思議に清らかな光があつた。そして僕が生き残つたこと、現にまだ僕が生きてゐること、何かがそのことを僕に激しく刻みつけよと促すやうだ。僕は自分の靴の音を自分の息のやうに数へてゐる。

 僕はこの部屋の窓のすぐ下で、大勢の子供が声を揃へて、
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ウオ
ウオ 
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