たのだろう。四十年前、神経質な父が建てさせたものであった。
 私は錯乱した畳や襖《ふすま》の上を踏越えて、身につけるものを探した。上着はすぐに見附かったがずぼんを求めてあちこちしていると、滅茶苦茶に散らかった品物の位置と姿が、ふと忙しい眼に留るのであった。昨夜まで読みかかりの本が頁《ページ》をまくれて落ちている。長押《なげし》から墜落した額が殺気を帯びて小床を塞《ふさ》いでいる。ふと、何処からともなく、水筒が見つかり、つづいて帽子が出て来た。ずぼんは見あたらないので、今度は足に穿《は》くものを探していた。
 その時、座敷の縁側に事務室のKが現れた。Kは私の姿を認めると、
「ああ、やられた、助けてえ」と悲痛な声で呼びかけ、そこへ、ぺったり坐り込んでしまった。額に少し血が噴出《ふきで》ており、眼は涙ぐんでいた。
「何処をやられたのです」と訊ねると、「膝《ひざ》じゃ」とそこを押えながら皺《しわ》の多い蒼顔《そうがん》を歪《ゆが》める。
 私は側《そば》にあった布切れを彼に与えておき、靴下を二枚重ねて足に穿いた。
「あ、煙が出だした、逃げよう、連れて逃げてくれ」とKは頻《しき》りに私を急《せ》かし出す。この私よりかなり年上の、しかし平素ははるかに元気なKも、どういうものか少し顛動《てんどう》気味であった。
 縁側から見渡せば、一めんに崩れ落ちた家屋の塊《かたまり》があり、やや彼方《かなた》の鉄筋コンクリートの建物が残っているほか、目標になるものも無い。庭の土塀のくつがえった脇《わき》に、大きな楓《かえで》の幹が中途からポックリ折られて、梢《こずえ》を手洗鉢《てあらいばち》の上に投出している。ふと、Kは防空壕《ぼうくうごう》のところへ屈《かが》み、
「ここで、頑張ろうか、水槽もあるし」と変なことを云う。
「いや、川へ行きましょう」と私が云うと、Kは不審そうに、
「川? 川はどちらへ行ったら出られるのだったかしら」と嘯《うそぶ》く。
 とにかく、逃げるにしてもまだ準備が整わなかった。私は押入から寝間着をとり出し彼に手渡し、更に縁側の暗幕を引裂いた。座蒲団《ざぶとん》も拾った。縁側の畳をはねくり返してみると、持逃げ用の雑嚢《ざつのう》が出て来た。私は吻《ほっ》としてそのカバンを肩にかけた。隣の製薬会社の倉庫から赤い小さな焔《ほのお》の姿が見えだした。いよいよ逃げだす時機であった。私は最後に、ポックリ折れ曲った楓の側を踏越えて出て行った。
 その大きな楓は昔から庭の隅にあって、私の少年時代、夢想の対象となっていた樹木である。それが、この春久し振りに郷里の家に帰って暮すようになってからは、どうも、もう昔のような潤《うるお》いのある姿が、この樹木からさえ汲《く》みとれないのを、つくづく私は奇異に思っていた。不思議なのは、この郷里全体が、やわらかい自然の調子を喪《うしな》って、何か残酷な無機物の集合のように感じられることであった。私は庭に面した座敷に這入って行くたびに、「アッシャ家の崩壊」という言葉がひとりでに浮んでいた。

 Kと私とは崩壊した家屋の上を乗越え、障害物を除《よ》けながら、はじめはそろそろと進んで行く。そのうちに、足許《あしもと》が平坦《へいたん》な地面に達し、道路に出ていることがわかる。すると今度は急ぎ足でとっとと道の中ほどを歩く。ぺしゃんこになった建物の蔭《かげ》からふと、「おじさん」と喚く声がする。振返ると、顔を血だらけにした女が泣きながらこちらへ歩いて来る。「助けてえ」と彼女は脅《おび》えきった相で一生懸命ついて来る。暫《しばら》く行くと、路上に立はだかって、「家が焼ける、家が焼ける」と子供のように泣喚いている老女と出逢《であ》った。煙は崩れた家屋のあちこちから立昇っていたが、急に焔の息が烈《はげ》しく吹きまくっているところへ来る。走って、そこを過ぎると、道はまた平坦となり、そして栄橋の袂《たもと》に私達は来ていた。ここには避難者がぞくぞく蝟集《いしゅう》していた。
「元気な人はバケツで火を消せ」と誰かが橋の上に頑張っている。私は泉邸《せんてい》の藪《やぶ》の方へ道をとり、そして、ここでKとははぐれてしまった。
 その竹藪は薙《な》ぎ倒され、逃げて行く人の勢で、径《みち》が自然と拓《ひら》かれていた。見上げる樹木もおおかた中空で削《そ》ぎとられており、川に添った、この由緒《ゆいしょ》ある名園も、今は傷だらけの姿であった。ふと、灌木《かんぼく》の側にだらりと豊かな肢体を投出して蹲《うずくま》っている中年の婦人の顔があった。魂の抜けはてたその顔は、見ているうちに何か感染しそうになるのであった。こんな顔に出喰わしたのは、これがはじめてであった。が、それよりもっと奇怪な顔に、その後私はかぎりなく出喰わさねばならなかった。
 川岸に出
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