どんな色彩であったか、はっきり覚えてはいない。が、恐らく、ひどく陰惨な、地獄絵巻の緑の微光につつまれていたのではないかとおもえるのである。
この竜巻が過ぎると、もう夕方に近い空の気配が感じられていたが、今迄姿を見せなかった二番目の兄が、ふとこちらにやって来たのであった。顔にさっと薄墨色の跡があり、脊のシャツも引裂かれている。その海水浴で日焦《ひやけ》した位の皮膚の跡が、後には化膿《かのう》を伴う火傷《やけど》となり、数カ月も治療を要したのだが、この時はまだこの兄もなかなか元気であった。彼は自宅へ用事で帰ったとたん、上空に小さな飛行機を認め、つづいて三つの妖《あや》しい光を見た。それから地上に一間あまり跳ね飛ばされた彼は、家の下敷になって藻掻いている家内と女中を救い出し、子供二人は女中に托《たく》して先に逃げのびさせ、隣家の老人を助けるのに手間どっていたという。
嫂《あによめ》がしきりに別れた子供のことを案じていると、向岸の河原《かわら》から女中の呼ぶ声がした。手が痛くて、もう子供を抱《かか》えきれないから早く来てくれというのであった。
泉邸の杜《もり》も少しずつ燃えていた。夜になってこの辺まで燃え移って来るといけないし、明るいうちに向岸の方へ渡りたかった。が、そこいらには渡舟も見あたらなかった。長兄たちは橋を廻って向岸へ行くことにし、私と二番目の兄とはまた渡舟を求めて上流の方へ溯《さかのぼ》って行った。水に添う狭い石の通路を進んで行くに随《したが》って、私はここではじめて、言語に絶する人々の群を見たのである。既に傾いた陽ざしは、あたりの光景を青ざめさせていたが、岸の上にも岸の下にも、そのような人々がいて、水に影を落していた。どのような人々であるか……。男であるのか、女であるのか、殆ど区別もつかない程、顔がくちゃくちゃに腫《は》れ上って、随って眼は糸のように細まり、唇《くちびる》は思いきり爛《ただ》れ、それに、痛々しい肢体を露出させ、虫の息で彼等は横《よこた》わっているのであった。私達がその前を通って行くに随ってその奇怪な人々は細い優しい声で呼びかけた。「水を少し飲ませて下さい」とか、「助けて下さい」とか、殆どみんながみんな訴えごとを持っているのだった。
「おじさん」と鋭い哀切な声で私は呼びとめられていた。見ればすぐそこの川の中には、裸体の少年がすっぽり頭まで水に漬《つか》って死んでいたが、その屍体《したい》と半間も隔たらない石段のところに、二人の女が蹲っていた。その顔は約一倍半も膨脹し、醜く歪み、焦げた乱髪が女であるしるしを残している。これは一目見て、憐愍《れんびん》よりもまず、身の毛のよだつ姿であった。が、その女達は、私の立留ったのを見ると、
「あの樹のところにある蒲団は私のですからここへ持って来て下さいませんか」と哀願するのであった。
見ると、樹のところには、なるほど蒲団らしいものはあった。だが、その上にはやはり瀕死《ひんし》の重傷者が臥《ふ》していて、既にどうにもならないのであった。
私達は小さな筏《いかだ》を見つけたので、綱を解いて、向岸の方へ漕《こ》いで行った。筏が向うの砂原に着いた時、あたりはもう薄暗かったが、ここにも沢山の負傷者が控えているらしかった。水際に蹲っていた一人の兵士が、「お湯をのましてくれ」と頼むので、私は彼を自分の肩に依り掛からしてやりながら、歩いて行った。苦しげに、彼はよろよろと砂の上を進んでいたが、ふと、「死んだ方がましさ」と吐き棄《す》てるように呟《つぶや》いた。私も暗然として肯《うなず》き、言葉は出なかった。愚劣なものに対する、やりきれない憤《いきどお》りが、この時我々を無言で結びつけているようであった。私は彼を中途に待たしておき、土手の上にある給湯所を石崖の下から見上げた。すると、今湯気の立昇っている台の処《ところ》で、茶碗《ちゃわん》を抱えて、黒焦《くろこげ》の大頭がゆっくりと、お湯を呑《の》んでいるのであった。その厖大《ぼうだい》な、奇妙な顔は全体が黒豆の粒々で出来上っているようであった。それに頭髪は耳のあたりで一直線に刈上げられていた。(その後、一直線に頭髪の刈上げられている火傷者を見るにつけ、これは帽子を境に髪が焼きとられているのだということを気付くようになった。)暫くして、茶碗を貰《もら》うと、私はさっきの兵隊のところへ持運んで行った。ふと見ると、川の中に、これは一人の重傷兵が膝《ひざ》を屈《かが》めて、そこで思いきり川の水を呑み耽《ふけ》っているのであった。
夕闇《ゆうやみ》の中に泉邸の空やすぐ近くの焔があざやかに浮出て来ると、砂原では木片を燃やして夕餉《ゆうげ》の焚《た》き出《だ》しをするものもあった。さっきから私のすぐ側に顔をふわふわに膨らした女が横わっていたが
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