誰かが「空襲」と叫ぶ。「白いものを着たものは木蔭へ隠れよ」といふ声に、皆はぞろぞろ藪の奥へ匐つて行く。陽は燦々と降り灑ぎ藪の向も、どうやら火が燃えてゐる様子だ。暫く息を殺してゐたが、何事もなささうなので、また川の方へ出て来ると、向岸の火事は更に衰へてゐない。熱風が頭上を走り、黒煙が川の中ほどまで煽られて来る。その時、急に頭上の空が暗黒と化したかと思ふと、沛然として大粒の雨が落ちて来た。雨はあたりの火照りを稍々鎮めてくれたが、暫くすると、またからりと晴れた天気にもどつた。対岸の火事はまだつづいてゐた。今、こちらの岸には長兄と妹とそれから近所の見知つた顔が二つ三つ見受けられたが、みんなは寄り集つて、てんでに今朝の出来事を語り合ふのであつた。
 あの時、兄は事務室のテーブルにゐたが、庭さきに閃光が走ると間もなく、一間あまり跳ね飛ばされ、家屋の下敷になつて暫く藻掻いた。やがて隙間があるのに気づき、そこから這ひ出すと、工場の方では、学徒が救ひを求めて喚叫してゐる――兄はそれを救ひ出すのに大奮闘した。妹は玄関のところで光線を見、大急ぎで階段の下に身を潜めたため、あまり負傷を受けなかつた。みんな、は
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