穿くものを探してゐた。
その時、座敷の縁側に事務室のKが現れた。Kは私の姿を認めると、
「ああ、やられた、助けてえ」と悲痛な声で呼びかけ、そこへ、ぺつたり坐り込んでしまつた。額に少し血が噴出てをり、眼は涙ぐんでゐた。
「何処をやられたのです」と訊ねると、「膝ぢや」とそこを押へながら皺の多い蒼顔を歪める。
私は側にあつた布切れを彼に与へておき、靴下を二枚重ねて足に穿いた。
「あ、煙が出だした、逃げよう、連れて逃げてくれ」とKは頻りに私を急かし出だす。この私よりかなり年上の、しかし平素ははるかに元気なKも、どういふものか少し顛動気味であつた。
縁側から見渡せば、一めんに崩れ落ちた家屋の塊りがあり、やや彼方の鉄筋コンクリートの建物が残つてゐるほか、目標になるものも無い。庭の土塀のくつがへつた脇に、大きな楓の幹が中途からポツクリ折られて、梢を手洗鉢の上に投出してゐる。ふと、Kは防空壕のところへ屈み、
「ここで、頑張らうか、水槽もあるし」と変なことを云ふ。
「いや、川へ行きませう」と私が云ふと、Kは不審さうに、
「川? 川はどちらへ行つたら出られるのだつたかしら」と嘯く。
とにかく、逃げるにしてもまだ準備が整はなかつた。私は押入から寝巻をとり出し彼に手渡し、更に縁側の暗幕を引裂いた。座蒲団も拾つた。縁側の畳をはねくり返してみると、持逃げ用の雑嚢が出て来た。私は吻としてそのカバンを肩にかけた。隣の製薬会社の倉庫から赤い小さな焔の姿が見えだした。いよいよ逃げだす時機であつた。私は最後に、ポツクリ折れ曲つた楓の側を踏越えて出て行つた。
その大きな楓は昔から庭の隅にあつて、私の少年時代、夢想の対象となつてゐた樹木である。それが、この春久振りに郷里の家に帰つて暮すやうになつてからは、どうも、もう昔のやうな潤ひのある姿が、この樹木からさへ汲みとれないのを、つくづく私は奇異に思つてゐた。不思議なのは、この郷里全体が、やはらかい自然の調子を喪つて、何か残酷な無機物の集合のやうに感じられることであつた。私は庭に面した座敷に這入つて行くたびに、「アツシヤ家の崩壊」といふ言葉がひとりでに浮んでゐた。
Kと私とは崩壊した家屋の上を乗越え、障害物を除けながら、はじめはそろそろと進んで行く。そのうちに、足許が平坦な地面に達し、道路に出てゐることがわかる。すると今度は急ぎ足でとつとと道の中ほどを歩く。ぺしやんこになつた建物の蔭からふと、「をぢさん」と喚く声がする。振返ると、顔を血だらけにした女が泣きながらこちらへ歩いて来る。「助けてえ」と彼女は脅えきつた相で一生懸命ついて来る。暫く行くと、路上に立はだかつて、「家が焼ける、家が焼ける」と子供のやうに泣喚いてゐる老女と出逢つた。煙は崩れた家屋のあちこちから立昇つてゐたが、急に焔の息が烈しく吹きまくつてゐるところへ来る。走つて、そこを過ぎると、道はまた平坦となり、そして栄橋の袂に私達は来てゐた。ここには避難者がぞくぞく蝟集してゐた。「元気な人はバケツで火を消せ」と誰かが橋の上に頑張つてゐる。私は泉邸の藪の方へ道をとり、そして、ここでKとははぐれてしまつた。
その竹藪は薙ぎ倒され、逃げて行く人の勢で、径が自然と拓かれてゐた。見上げる樹木もおほかた中空で削ぎとられてをり、川に添つた、この由緒ある名園も、今は傷だらけの姿であつた。ふと、灌木の側にだらりと豊かな肢体を投出して蹲つてゐる中年の婦人の顔があつた。魂の抜けはてたその顔は、見てゐるうちに何か感染しさうになるのであつた。こんな顔に出喰はしたのは、これがはじめてであつた。が、それよりもつと奇怪な顔に、その後私はかぎりなく出喰はさねばならなかつた。
川岸に出る籔のところで、私は学徒の一塊りと出逢つた。工場から逃げ出した彼女達は一やうに軽い負傷をしてゐたが、いま眼の前に出現した出来事の新鮮さに戦きながら、却つて元気さうに喋り合つてゐた。そこへ長兄の姿が現れた。シヤツ一枚で、片手にビール瓶を持ち、まづ異状なささうであつた。向岸も見渡すかぎり建物は崩れ、電柱の残つてゐるほか、もう火の手が廻つてゐた。私は狭い川岸の径へ腰を下ろすと、しかし、もう大丈夫だといふ気持がした。長い間脅かされてゐたものが、遂に来たるべきものが、来たのだつた。さばさばした気持で、私は自分が生きながらへてゐることを顧みた。かねて、二つに一つは助からないかもしれないと思つてゐたのだが、今、ふと己れが生きてゐることと、その意味が、はつと私を弾いた。
このことを書きのこさねばならない、と、私は心に呟いた。けれども、その時はまだ、私はこの空襲の真相を殆ど知つてはゐなかつたのである。
対岸の火事が勢を増して来た。こちら側まで火照りが反射して来るので、満潮の川水に座蒲団を浸しては頭にかむる。そのうち、
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