ゐたが、岸の上にも岸の下にも、そのやうな人々がゐて、水に影を落してゐた。どのやうな人々であるか……。男であるのか、女であるのか、殆ど区別もつかない程、顔がくちやくちやに腫れ上つて、随つて眼は糸のやうに細まり、唇は思ひきり爛れ、それに、痛々しい肢体を露出させ、虫の息で彼等は横はつてゐるのであつた。私達がその前を通つて行くに随つてその奇怪な人々は細い優しい声で呼びかけた。「水を少し飲ませて下さい」とか、「助けて下さい」とか、殆どみんながみんな訴へごとを持つてゐるのだつた。
「をぢさん」と鋭い哀切な声で私は呼びとめられてゐた。見ればすぐそこの川の中には、裸体の少年がすつぽり頭まで水に漬つて死んでゐたが、その屍体と半間も隔たらない石段のところに、二人の女が蹲つてゐた。その顔は約一倍半も膨脹し、醜く歪み、焦げた乱髪が女であるしるしを残してゐる。これは一目見て、憐愍よりもまず、身の毛のよだつ姿であつた。が、その女達は、私の立留まつたのを見ると、
「あの樹のところにある蒲団は私のですからここへ持つて来て下さいませんか」と哀願するのであつた。
見ると、樹のところには、なるほど蒲団らしいものはあつた。だが、その上にはやはり瀕死の重傷者が臥してゐて、既にどうにもならないのであつた。
私達は小さな筏を見つけたので、綱を解いて、向岸の方へ漕いで行つた。筏が向の砂原に着いた時、あたりはもう薄暗かつたが、ここにも沢山の負傷者が控へてゐるらしかつた。水際に蹲つてゐた一人の兵士が、「お湯をのましてくれ」と頼むので、私は彼を自分の肩に依り掛からしてやりながら、歩いて行つた。苦しげに、彼はよろよろと砂の上を進んでゐたが、ふと、「死んだ方がましさ」と吐き棄てるやうに呟いた。私も暗然として肯き、言葉は出なかつた。愚劣なものに対する、やりきれない憤りが、この時我々を無言で結びつけてゐるやうであつた。私は彼を中途に待たしておき、土手の上にある給湯所を石崖の下から見上げた。すると、今湯気の立昇つてゐる台の処で、茶碗を抱へて、黒焦の大頭がゆつくりと、お湯を呑んでゐるのであつた。その尨大な、奇妙な顔は全体が黒豆の粒々で出来上つてゐるやうであつた。それに頭髪は耳のあたりで一直線に刈上げられてゐた。(その後、一直線に頭髪の刈上げられてゐる火傷者を見るにつけ、これは帽子を境に髪が焼きとられてゐるのだといふことを気付くやうになつた。)暫くして、茶碗を貰ふと、私はさつきの兵隊のところへ持運んで行つた。ふと見ると、川の中に、これは一人の重傷兵が膝を屈めて、そこで思ひきり川の水を呑み耽つてゐるのであつた。
夕闇の中に泉邸の空やすぐ近くの焔があざやかに浮出て来ると、砂原では木片を燃やして夕餉の焚き出しをするものもあつた。さつきから私のすぐ側に顔をふわふわに膨らした女が横はつてゐたが、水をくれといふ声で、私ははじめて、それが次兄の家の女中であることに気づいた。彼女は赤ん坊を抱へて台所から出かかつた時、光線に遭ひ、顔と胸と手を焼かれた。それから、赤ん坊と長女を連れて兄達より一足さきに逃げたが、橋のところで長女とはぐれ、赤ん坊だけを抱へてこの河原に来てゐたのである。最初顔に受けた光線を遮らうとして覆うた手が、その手が、今も捩ぎとられるほど痛いと訴へてゐる。
潮が満ちて来だしたので、私達はこの河原を立退いて、土手の方へ移つて行つた。日はとつぷり暮れたが、「水をくれ、水をくれ」と狂ひまはる声があちこちできこえ、河原にとり残されてゐる人々の騒ぎはだんだん烈しくなつて来るやうであつた。この土手の上は風があつて、睡るには少し冷え冷えしてゐた。すぐ向は饒津公園であるが、そこも今は闇に鎖され、樹の折れた姿がかすかに見えるだけであつた。兄達は土の窪みに横はり、私も別に窪地をみつけて、そこへ這入つて行つた。すぐ側には傷ついた女学生が三四人横臥してゐた。
「向の木立が燃えだしたが逃げた方がいいのではないかしら」と誰かが心配する。窪地を出て向を見ると、二三丁さきの樹に焔がキラキラしてゐたが、こちらへ燃え移つて来さうな気配もなかつた。
「火は燃えて来さうですか」と傷ついた少女は脅えながら私に訊く。
「大丈夫だ」と教へてやると、「今、何時頃でせう、まだ十二時にはなりませんか」とまた訊く。
その時、警戒警報が出た。どこかにまだ壊れなかつたサイレンがあるとみえて、かすかにその響がする。街の方はまだ熾んに燃えてゐるらしく、茫とした明りが川下の方に見える。
「ああ、早く朝にならないのかなあ」と女学生は嘆く。
「お母さん、お父さん」とかすかに静かな声で合掌してゐる。
「火はこちらに燃えて来さうですか」と傷ついた少女がまた私に訊ねる。
河原の方では、誰か余程元気な若者らしいものの、断末魔のうめき声がする。その声は八方に木霊
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