て奴を望むのだね。哲学にしろ、宗教にしろ、芸術にしろ、何かかう自分以外のものに縋ってゐると気持がいいからね。だから君があの室《むろ》のやうな街に魅力を感じるのも、つまり精神分析的に云ふと意味があるのだね。」と柔和な男は行手を頤で指差しながら笑った。
それから三年目のある蒸暑い夜であった。神経質な男は柔和な男の家の椅子に腰をかけてゐた。体格の逞しい男の方は最近細君をもって郊外に落着いたのである。恰度袋路の一番奥の家で、すぐ側には崖があった。神経質な男は自分の腰掛けてゐる椅子を手で撫でながら尋ねた。
「この椅子は気がきいてるね。」
「なあに、ビール箱で造ったのだよ。」
神経質の男は自分のアパートへ帰るべく省線に乗った。開放たれた窓から凉しい風が頬を撫でた。電車の響に初夏の爽やかさが頻りと感じられた。
「椅子もいいが、電車もいい。」と彼は無意味なことを考へた。
「永久に変らない椅子と、停まることのない電車ならどちらも結構だ。」
底本:「普及版 原民喜全集第一巻」芳賀書店
1966(昭和41)年2月15日
入力:蒋龍
校正:小林繁雄
2009年6月18日作成
青空文庫作成フ
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