はありませんけど、それは児の方の側の事で親の云云する事ではありません。親は親として満足出来なければ親にならない外、外に道がありませんもの。然も私は親になりかけた時に気が付いたのです。随分々々迂遠な事でした。然し親になつて了つてからでなかつたのがまだしのもの幸でした。
法官は虚無党以上の危険思想だと云ひました。
「実に恐ろしい。実に危険だ。罪悪以上だ」
と云ひました。私の身は怎うなるか分りません。法官は「人類の滅亡だ」と云ふ事を繰返しました。そして「其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]思想を口実にして他に之れを見做《みなら》ふものがあつたら罪悪は罪悪を産むではないか」と云ひました。人間が自分の問題を考究する時人類だの他人だのと考を散慢に拡げて居られるものと思つて居るのでせうか。私は即坐に
「人の事は人の事です。人類があつてから私があるのではありません」
と打突ける様に云ひましたの。そしたら
「それでは何処までも犯罪だと云ふ事を知らないで行つたと云ふのか」
斯んな愚にも付かない尋問をするのです。私は「刑法と善悪とは別問題です。然し刑法に触れゝば罪人だと云ふ事は知つて居ました。そして私の行為が刑法に触れてる事も知つて居ました」
と答へましたの。すると何故自首しなかつたと云ふのでせう?
「罪を認めて居るものは法律で私ではなかつたからです」
と云ひますとね、法官もゑらい事を云ひましてよ、此言葉丈けには感心しました。
「法官が知らなくとも法律に触れてる事実を怎うする?」
と云ふのです。実際さうです。知つても知らなくとも事実は事実ですものね。其時私は
「それは法官の御手腕に任せます。私には只だ法律より私の信念の方が確かなのですから私自身では私の信念に動く外仕方がありません。然し今度は法律が私の方へ働きかけて来る時、事はそちらのお話になります」
と云ひましたの。
私の判決は怎うなるか分りません。怎うなるか……けれど私の信念には少しも動揺がないのですから。それに私の行つた事実にも変りはないのですから。貴方は何にも悲しまないで下さるでせう? そして一生懸命お仕事をして下さい。私の分も。
四
今日は頻りに宅の部屋の様子が目に見えます。私が居なくなつた日から貴方は部屋を掃いた事がないでせうね。床も敷きつぱなしでせうね。あの古くなつた掛布団はまたもう綿がはみ出したでせうね。縫ふとは切れ縫ふとは切れしてましたもの。貴方は今に綿丈けになつた布団は掛けなければならなくなるでせう屹度《きつと》。それでも悲しまないでね。
何だか私は今頃貴方が冷い御飯に水をかけてお塩をかけて、埃りだらけの布団の隅に踞《うづくま》つて食べて被入る様な気がしてなりません。さうですか? 私は見たい。私の机の抽斗の中に紙に包んだ塩豌豆が少しあつたのを貴方はお見つけになつたかしら。若しまだだつたらもう干枯らびて了つたでせう。
又くどく云ふ様ですけど私の事をお考へになつたらお仕事丈けをして頂戴ね。二人が葬られて了ふ様な事があつたら私はそれこそお恨みしますから。それが私には心配で/\堪らないんですの。どうかすると貴方が絶望してこの暗い世界へ飛び込んで被入りはしないかともう恐ろしくて堪らない事があるのです。私の知らない間に貴方も此処へ来て被入る様な気さへする事がありますの。どうぞね無駄にならない様にしませうね。
あ、今ね貴方の下駄が片方踏み石の下へ引繰り返へつてるのが見えます。一つは格子の側の処へ飛んで貼り柾がむけて来ましたね。
底本:「日本の名随筆77 産」作品社
1989(平成元)年3月25日第1刷発行
底本の親本:「青鞜」青鞜社
1915(大正4)年6月
入力:土屋隆
校正:noriko saito
2006年9月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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