う‥‥。冥土へ行つて、吻つとしてるわね。きつとそうよ。生きてちや息苦しい世の中ですもの‥‥」
 兵隊の心中と聞いて、直吉は身につまされる気がした。兵隊の身分で芸者と心中をするなぞとは、いまの世間は非国民として眉をひそめる事件に違ひない。直吉は、心中の美しい場面を空想した。むしろ同情的であり、羨しくもあつた。何の為に生きてゐるのか、此頃は規則づくめの責めたてられるやうな生活だつたので、直吉も幾分か生きてゐる事にやぶれかぶれな気持ちだつたのだ。――日々の気持ちが荒み果てて来ると、寮では、精神修業に唐手が流行しだしたが、唐手をやり出してから、便所の壁には拳大の穴が明き、障子の桟は折れ、硝子は破られて、寮内の所々方々が、誰のしわざともなく荒されて行つた。時には畳を一枚々々はすかひに剪られてゐる時もあつた。部屋々々の品物も、ひんぴんと紛失した。喧嘩は絶え間なかつたし、女と見れば追ひかけまはして手込めにするものもあつた。若いものにとつては、生死の問題に就いては、あまりに無雑作であり過ぎたために、新聞に出ない事件が、直吉の工場にも幾つかあつた。盗みや、強姦や、殺人が、直吉の工場にもひんぴんと演じられた。一億玉砕と云ふスローガンは、やぶれかぶれになれと命令されたやうにも錯覚したのだらう。兵隊が芸者を殺して自殺したと云ふ事件は、直吉にとつては、怖しい事件でも何でもなかつたが、その心中の場面が、直吉には、清純な人間の最後の対決を見たやうな気がしたのだつた。美しいのだ。
「ねえ、さうだと思はない?新聞には出ないけど、松葉姐さんも、こんな世の中に反抗しちやつたのね。――私だつて、時々、とても生きてゐるの厭になる時があるわ。でも、死にたいなンで考へた事はないけど‥‥。本当に、こんな戦争つて厭になつちまふのよ。――此間も、弟の手紙を見たら、早く飛行機に乗つて、敵をやつつけて戦争へ行つて、九段の華と散りたいなンて書いてあるの‥‥。私、がつかりしちやつたわ。此頃は、学校で、みんなそンな事を云つてるのね、きつと、さうだわ。私、返事も出してやらないの。こんなに身を粉にして、私、家へお金を送つてゐるのに、甘い事考へて、九段の華と散るなンて考へるの厭だわ。九段の華と散るのはいゝけど、あとにはずるい人間ばかりが残つちやふぢやないの‥‥」
 里子はさう云つて、小さな声で、「つまらない世の中ね」と云つた。二人は枕を一つにして、暗がりで頬を差し寄せてゐた。里子につまらない世の中ねと云はれるまでもなく、直吉も亦、つくづく人の世の佗しさを感じてもゐるのだ。このまゝ歩いてみたところで、何処へ突き抜けて行ける当てもない。
 朝、里子は死人のやうに蒼ざめた顔をして眠つてゐた。直吉は煙草を吸ひたくなり、腹這ひになつて、枕もとの煙草を取つて、吸ひつけたが、ぱさぱさと紙臭い匂ひがして、舌に煙草の味が乗らなかつた。時間も判らなかつたが、暗幕を透かしてにぶい光が部屋の中に縞になつて射してゐた。考へる事もなく、乾いた煙草を吸ひながら、呆んやり里子の寝顔を見てゐると、小鼻に白い膏の浮いた汗つぽい肌が、果物のやうにも見えた。心中をした兵隊のやうに、直吉は里子を連れ出して、二三日、気楽な旅に出てみたい気がしてゐた。何故ともなく、大輪の牡丹の咲いてゐる華麗な花畑が瞼のなかに浮いて見える。にぶい爆音がした。音を聞いただけで、直吉は飛行機の種類を聴き分ける事が出来た。ふつと瞼を開けて、里子が直吉の方へ寝返へりをして、「起きていらつしたの」と聞いた。陶器のやうに光つ顔[#「光つ顔」はママ]に、小さく羽音をたてて、蝿がうるさく飛び立つてゐる。――里子を連れ出して、誰もゐないところで、数日でも自由な生活をしてみたかつたが、配給暮しのなかに生きてゐる以上は、さうして食べるだけの自由さも与へられないと思ふと、直吉は苦笑してしまふのである。
「何を笑つてゐるの?」
「何でもない‥‥」
「だつて笑つたわよ」
「色々とをかしな事を考へてゐたンだ」
「どんな事‥‥」
「不忠不義の事を考へてゐたのさ。君を連れて逃げ出したいなンて思つてゐたのさ」
「まア、そンなに、私のこと好き? 逃げてもいゝわ‥‥」
 直吉は、それから二月位は浅草に行く折もなかつた。金もなかつたが、仕事も段々激しくなり、工場は建物を増築して、学徒の勤労奉仕も大勢来るやうになつた。朝の工場の門に立つてゐると、まるで雪崩れのやうに、大群集が吸ひこまれて来る。一人々々が物々しい姿であつた。血液型と名前を書いた白布を胸につけた男女の群が、工場の門の中へコールタールの流れのやうに押しこまれて来る。カーキ色の星のマークのついた自動車が、ガソリンの匂ひを撒き散らして群集の真中を押し切つて、何台も工場へ這入つて来る。直吉は事務所の窓からかうした異状な景色を眺めながら、心の満たされない空虚なものを感じた。人気のない茫漠とした処へ行つてみたくなるのだ。南方への進出も段々勢ひをまして、日に日に戦果が大きく発表された。
――三月あまりたつて、何時か、里子と何気なく約束しておいたとほりに、里子を連れ出して、千駄ヶ谷の友人の二階に里子をかくまつてしまつた。売れツ妓だつたので、別に大した借金もあるわけではなかつたが、それでも、当分は、里子は外出もしなかつた。直吉は寮を出て、千駄ヶ谷の里子の処へ同居するやうになり、里子の配給なしの生活を見てやるのに生甲斐のある苦労もした。あわたゞしい世の中だつたので、浅草からの追手もそのまゝになり半年も[#「なり半年も」は底本では「なり 半年も」]するうちには、里子は平気で外へ出歩くやうになつてゐた。
 直吉が再度の出征をするまで、貧しいながらも直吉の生涯にとつて、平和な月日が流れた。直吉は会社の物品を時々くすねて来ては、配給のない里子の生活を見てやつてゐた。会社の物品をくすねて来るのも、段々大胆になつて行つた。時々はきはどい危険な手段も講じるやうになり、直吉自身もさうした悪事に就いては、毎日冷々して暮さなければならなかつたが、さうした追ひつめられた生活は反逆的に生甲斐もあり面白かつた。間もなく直吉は再度の召集令状が来て、千駄ヶ谷の二階借りから満州へ出征して行つた。
 考へてみると、初めから根底のない生活でもあつたが、直吉は久しぶりに復員して来て、以前の生活よりは単純な澄みとほつた気持ちで、日本の空気を吸つた。何も彼も一変してゐる。自分自身の支へを自分で強く措置する術を直吉は覚えた。敗戦後の日本には、自由の言葉が広告紙のやうに、撒き散らされてゐたが、考へてみる、その自由は、一種の監禁のなかの自由でもあらうか。たゞ、何となく、社会の流れは、昔の或る時代と少しも変りのない不安な状態に似たものが耳底にがうがうと風音のやうに吹き流れて来た。聊かも人間に与へられた神の試練は昔も今も少しも変らない。‥‥家へ戻つてみると、父は老いてゐたし、継母は脳を病んで昔のおもかげもない汚い女に変貌してゐた。少年飛行兵だつた弟の隆吉は、進駐軍の宿舎にボーイになつて勤めてゐる。おまけに里子は、とつくに千駄ヶ谷をたたんでゐた。直吉が戻つて来て、暫くは里子の消息も判らなかつたが、千葉へ問ひあはせてみて、里子が何となくあいまいな職業に就いてゐる事が判つた。直吉は失望はしなかつたが、里子の不実を許せるかどうかは、逢つてみなければ判らないと思つた。継母は戻つて来た直吉に対して、何の記憶もないやうな白々しさで、はにかんで笑つた。焼け跡に建てた家は、寄せあつめの古材で、建築した小舎同然の家で、風が吹くと、銹びたトタン屋根は凄い音をたてて鳴つた。部屋の隅の一画に、継母は綿のはみ出た蒲団にくるまつて、終日黙つて節穴を睨めてゐた。体を起して、その節穴に指をつゝこんでぶつくさ云つてゐる時もある。寒いも暑いもないのだ。心にも皮膚にも人間の感覚はなくなつてゐた。ロボツトのやうな人間になり、たゞ、下の始末の時だけは、定められた処へ、行儀のいゝ猫のやうなしぐさで這つて行つた。食事は父がつくつてゐた。代書の権利はとつくに人に譲り、父は猫の額ほどの店に、信州から箒を取り寄せて売つてゐた。箒の外にも、素焼の魔法コンロや、束子のやうなものを少しばかり並べてゐた。生活費はほとんど隆吉の収入でまかなはれてゐる様子だつた。直吉は流刑から戻つて来た爽かさで、この狭い家にゆつくり手足をのばしたが、その爽かさは長い忍耐の崩壊したあとのすがすがしさでもあつた。漂流は終つたとは云へなかつたが、一応は、この現実から立ちあがつて行かなければならない。――隆吉が、時々白いパンを貰つて来る事がある。その白いパンを眺めて、直吉は肌の柔かいパンに鼻をつけて、突然うゝつと瞼に熱いものが突きあげた。パンは柔くて美味かつたが、食べながら、その白いパンを頑固に拒否してゐる、意地の悪い気持ちもあつた。――時には、夢で、ノボオシビルクスに引き戻されて怯える夜もあつたが、夢が覚めると、白いパンに向ふ時の厭な気持ちになるのは、心に重たいしこりがあるせゐであらうか。
 直吉は、少しづつ自分を持てあまし気味になつてゐる家族の冷たさに気づいてきた。父も隆吉もいやによそよそしく直吉に向ふやうになつてゐたが、あんなに厭でたまらなかつた継母のたけよは、意識を失つてゐるせゐか、直吉に対しては淡々としてゐる。――直吉は戻つて一ヶ月ほどして、里子から千葉の里子の消息を聞くと[#「里子から千葉の里子の消息を聞くと」はママ]、返事を貰つた。直吉からは、簡単に復員して来た通知を、同時に出しておいたのだ。返事は仲々来なかつた。尋づねて行つては工合の悪いところの様子だつたので、直吉は我慢をして尋づねて行く事はしなかつたが、やつと一ヶ月振りに、妻の手紙とも思へぬ白々しさで、二三日うちに参りますと云ふ音信が来た。――
「お母さん、少しは体はいゝかい?」
「お隣りさんに少々手間をかけさせたので、あやまりに行かなくちやならないね」
「何がお隣りさんだ? お隣りさんなンかありやアしないよ」
「地下室に、水がいつぱい溜つたから、ポンプで吸ひ上げるンだよ‥‥」
「地下室?」
「早く逃げ込まない事にはあぶなくてねえ、壁には[#「壁には」はママ]屋根にも弾があたるンで、四囲が火の海だつたンだよ。歩くのに道が熱くてたまらないしね。お父さんは、私を捨てたンだから。私は何時までも逗留してゐるつもりですよ。私に何も食べさせないし、第一、油断がならないンでね。慇懃な人間には、気を許しちやいけないよ‥‥」
「親爺はそんな人間だ。死んだお母さんにも冷たいひとだつたなア‥‥」
「そりやアさうですよ。女好きなンですからね。鬚を剃つて出なほして来いつて云つて下さい。年中、私は嫌はれてるンで、遠いところから呼んで貰はなくちや‥‥一年前からふらふらして、雑巾がけをするのに辛くてね」
 継母はさう云つて、部屋の隅に坐つて、気持ちよささうに話した。ぼろぼろにほつれた毛糸の上張りの前がはだけて、玉葱のやうに光つた膝小僧が出てゐた。直吉は寝転んでゐたが、頭をその方へ寄せて、膝小僧の間から暗い洞窟を覗いた。長い間摸索してゐた一つの命題がそこにあるやうに、ぢいつと暗い一点を覗きこんでゐた。息苦しかつた。誰も出掛けたあとの部屋は、環境が広々として居心地のいゝ場所だが、ふつと、継母の体から淫蕩な倦きる事のない連想が湧いた。一種の背徳が、戦争の時のやうな響音で、直吉の耳底にすさまじく鳴り響いた。畳に寝転び、直吉は無心な狂女の膝小僧を静かにさすりながら、自分でも無気味であらうと思へる眼で、暗い洞窟をぢいつと覗き込んでゐた。継母ははにかみ笑ひをしながら、直吉のなすままに任せて、
「逃げるだけは逃げておくれよ。私はあの火の粉を見る事だけはまつぴらなンだから、とても大変な死人が、ポンプも何も間にあはないンだからね‥‥。何処へも行けやしないし馬穴持つて逃げたら、お父さんつてばね、あの時になつて、私を橋の上から突きおとしたンですからね」
 継母はばらばらと涙をこぼして、忍び泣きをしてゐる。醜い泣面だつたが、誠実なしみじみした美しさがたゞよつてゐた。
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