に行った家は地主だったけど、ひらけていて私にピヤノをならわせてくれたの、ピヤノの教師っても東京から流れて来たピヤノ弾きよ、そいつにすっかり欺されてしまって、私子供を孕んでしまったの。そいつの子供だってことは、ちゃんと分っているから云ってやったわ、そしたら、そいつの言い分がいゝじぁないの――旦那さんの子にしときなさい――だってさ、だから私口惜しくて、そんな奴の子供なんか生んじゃあ大変だと思って辛子を茶碗一杯といて呑んだわよホッホ……どこまで逃げたって追っかけて行って、人の前でツバ[#「ツバ」に傍点]を引っかけてやるつもりさ。」
「まあ……。」
「えらいね、あんたは……」
 仲間らしい讃辞がしばしは止まなかった。
 お計さんは飛び上って風呂水を何度も何度も、俊ちゃんの背に掛けてやった。
 私は息づまるような切なさで聞いていた。
 弱い私、弱い私……私はツバを引っかけてやるべき、裏切った男の頭をかぞえた。
 お話にならない大馬鹿者は私だ! 人のいゝって云う事が何の気安めになろうか――。
 
 十月×日
 ……ふと目を覚ますと、俊ちゃんはもう仕度をしていた。
「寝すぎたよ、早くしないと駄目だよ。」
 湯殿に皆荷物を運ぶと、私はホッとした。
 博多帯を音のしないように締めて、髪をつくろうと、私はそっと二人分の下駄を土間からもって来た。朝の七時だと云うのに、料理場は鼠がチロチロして、人のいゝ主人の鼾も平かだ。
 お計さんは子供の病気で昨夜千葉へ帰ってしまった。

 真実に、学生や定食の客ばかりでは、どうする事も出来なかった。
 止めたい止めたいと俊ちゃんと二人でひそひそ語りあっていたものゝ、みすみす忙がしい昼間の学生連と、少い女給の事を思うと、やっぱり弱気の二人は我慢しなければならなかった。
 金が這入らなくて道楽にこんな仕事も出来ない私達は、逃走するより外なかった。

 朝の誰もいない広々とした食堂の中は恐ろしく深閑として、食堂のセメントの池に、赤い金魚がピチピチはねている丈で、灰色に汚れた空気がよどんでいた。
 路地口の窓を開けて、俊ちゃんは男のようにピョイと飛び降りると、湯殿の高窓から降した信玄袋を取りに行った。
 私は二三冊の本と化粧道具を包んだ小さな包みきりだった。
「まあこんなにあるの……。」
 俊ちゃんはお上りさんのような格好で、蛇の目の傘と空色のパラソル、それに樽のような信玄袋を持って、まるで切実な一つの漫画だった。
 小川町の停留所で四五台の電車を待ったが、登校時間だったのか来る電車は学生で満員だった。
 往来の人に笑われながら、朝のすがすがしい光りをあびていると顔も洗わない昨夜からの私達は、インバイ[#「インバイ」に傍点]のようにも見えたろう。
 たまりかねて、二人はそばや[#「そばや」に傍点]に飛び込むと始めてつっぱった足を延した。そば屋の出前持の親切で、円タクを一台頼んでもらうと、二人は約束しておいた新宿の八百屋の二階へ越して行った。
 自動車に乗っていると、全く生きる事に自信が持てなくなった。
 ぺしゃんこに疲れ果てゝしまって、水がやけに飲みたかった。
「大丈夫よ! あんな家なんか出て来た方がいゝのよ。自分の意志通りに動けば私は後悔なんてしないよ。」
「元気を出して働くよ、あんたは一生懸命勉強するといゝわ……。」
 私は目を伏せていると、サンサンと涙があふれて、たとえ俊ちゃんの言った事が、センチメンタルな少女らしい夢のようなことであっても今のたよりない身には、只わけもなく嬉しかった。
 あゝ! 国へ帰ろう……お母さんの胸ん中へ走って帰ろう……自動車の窓から、朝の健康な青空を見た。走って行く屋根を見た。
 鉄色にさびた街路樹の梢にしみじみ雀のつぶて[#「つぶて」に傍点]を見た。
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うらぶれて異土のかたゐとならふとも
故里は遠きにありて思ふもの……
[#ここで字下げ終わり]

 かつてこんな詩を読んで感心した事があった。

 十一月×日
 愁々とした風が吹くようになった。
 俊ちゃんは先の御亭主に連れられて樺太に帰ってしまった。
 ――寒むくなるから……――と云って、八端のドテラ[#「ドテラ」に傍点]をかたみ[#「かたみ」に傍点]に置いて東京をたってしまった。
 私は朝から何も食べない。童話や詩を三ツ四ツ売ってみた所で、白いおまんまが、一ヶ月のどへ通るわけでもなかった。
 お腹がすくと一緒に、頭がモウロウとして、私は私の思想にもカビ[#「カビ」に傍点]を生やしてしまった。
 あゝ私の頭にはプロレタリヤもブルジョアもない。たった一握りの白い握り飯が食べたい。
 いっそ狂人になって街頭に吠えようか。
「飯を食わせて下さい。」
 眉をひそめる人達の事を思うと、いっそ荒海のはげしい情熱の中へ身をまかせよ
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