止っているよ。」
 あんまり淋しいんで、声に出してつぶやいてみた。

 女が少ないので、船員達が皆私の顔を見る。
 あゝこんな時にこそ、サンゼンと美しく生れて来ればよかった。
 つかい古した胡弓のような私。私は切なくなって、船底へ降りると、鏡をなくした私は、ニッケルのしゃぼん[#「しゃぼん」に傍点]箱を膝でこすって、顔をうつしてみた。
 せめて着物でも着替えよう。井筒の模様の浴衣にきかえると、落ちついた私の胸に、ドッポンドッポン波の音が響く。

 九月×日
 もう五時頃であろうか、様々な人達の物凄い寝息と、蚊にせめられて、夜中私は眠れなかった。

 私はそっと上甲板に出ると、ホッと息をついた。
 美しい朝あけである。
 乳色の涼しいしぶき[#「しぶき」に傍点]の中を蹴って、此古びた酒荷船は、颯々と風を切って走っている。
 月もまだ寝わすれている。

「暑くてやり切れねえ!」
 機関室から上って来た、たくましい菜っ葉服を肩にかけた船員が朱色の肌を拡げて、海の涼風を呼んでいる。
 美しい風景である。
 マドロスのお上さんも悪るくはないな。無意識に美しいポーズをつくっている、その船員の姿をじっと見ていた。

 その一ツ一ツのポーズのうちから、苦るしかった昔の激情を呼びおこした。
 美しい朝あけである。
 清水港が夢のように近かづいて来る。
 船乗りのお上さんも悪るくはないな。

 午前八時半、味噌汁と御飯と香の物で朝食が終る、お茶を呑んでいると、船員達が甲板を叫びながら走って行く。
「ビスケットが焼けましたから、いらっして下さい!」
 上甲板に出ると、焼きたての、ビスケットを両の袂にいっぱいもらった。お嬢さん達は貧民にでもやるように眺めて笑っている。
 あの人達は、私が女である事を知らないでいるらしい。二日目である、一言も声をかけてはくれぬ。
 此船は、どこの港へも寄らないで、一直線に海を急いでいるのだから嬉しい。
 料理人の人が「おはよう!」と声をかけてくれたので、私は昨夜寝られなかった事を話した。
「実は、そこは酒を積むところですから蚊が多いんですよ、今日は船員室でお寝なさい。」
 此料理人は、もう四十位だろうか、私と同じ位の脊の高さなのでとてもおかしい。
 私を部屋に案内してくれた。
 カーテンを引くと押入れのような寝台である。
 その料理人は、カーネエションミルクをポンポン開いて私に色んなお菓子をこしらえてくれた。小さいボーイが、まとめて私の荷物を運んで来ると、私はその寝台に長々と寝そべった。
 一寸頭を上げると円い窓の向うに大きな波のしぶき[#「しぶき」に傍点]が飛んでいる。
 今朝の美しい機関士も、ビスケットをポリポリかみながら一寸覗いて通る。私は恥かしいので、寝たふりをして顔をふせていた。
 ジュンジュン肉を焼く油の匂いがする。
「私はね、外国航路の厨夫なんですが、一度東京の震災も見度いと思いましてね、一と船休んで、こっちに連れて来て貰ったんですよ。」
 大変丁寧な物云いをする人である。
 私は高い寝台の上から、足をぶらさげて、御馳走を食べた。
「後でないしょでアイスクリームを製ってあげますよ。」
 真実、この人は好人物らしい。神戸に家があって、九人の子持ちだとこぼしていた。
 船に灯がはいると、今晩は皆船底に集ってお酒盛りだと云う。
 料理人の人達はてんてこ舞いで急がしい。

 私は灯を消して、窓から河のように流れ込む潮風を吸っていた。
 フッと私は、私の足先きに、生あたゝかい人肌を感じた。
 人の手だ!
 私は枕元のスイッチを捻った。
 鉄色の大きな手が、カーテンに引っこんで行くところである。
 妙に体がガチガチふるえる。どうなるものか、私は大きなセキをした。

 カーテンの外に呶鳴っている料理人の声がする。
「生意気な! 汚ない真似しよると承知せんぞ!」
 サッとカーテンが開くと、料理鉋丁のキラキラしたのをさげて、料理人が、一人の若い男の脊を突いてはいって来た。
 そのむくんだ顔に覚えはないが、鉄色のその手にはたしかに覚えがあった。
 何かすさまじい争闘が今にもありそうで、その料理鉋丁の動く度びに、私はキャッとした思いで、親指のようにポキポキした料理人の肩をおさえた。
「くせになりますよッ!」
 機関室で、なつかしいエンジンの音がする。
 手をはなすと、私は沈黙ってエンジンの音を聞いた。
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   秋の唇

 十月八日
 呆然と梯子段の上の汚れた地図を見ていると、蒼茫とした夕暮れの日射しに、地図の上は落寞とした秋であった。
 寝ころんで、煙草を吸っていると、訳もなく涙がにじんで、細々と佗しくなる。
 地図の上では、たった二三寸の間なのに、可哀想なお母さんは四国の海辺で、朝も夜も私の事を考えて暮らして
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