川の綺麗なこの町隅に、古ぼけた旅人宿を始めて、私は一年徳島での春秋を迎えた事がある。
 だがそれも小さかった私……今はもう、この旅人宿も荒れほうだいに荒れ、母一人の内職仕事になってしまった。
 父を捨て、母を捨て、長い事東京に放浪して疲れて帰った私も、昔のたどたどしい恋文や、ひさし髪の大きかった写真を古ぼけた箪笥の底にひっくり返してみると懐しい昔のいゝ夢が段々蘇って来る。
 長崎の黄ろいちゃんぽん[#「ちゃんぽん」に傍点]うどんや尾道の千光寺の桜や、ニユ川で覚えた城ヶ島の唄や、あゝみんないゝ!
 絵をならい始めた頃の、まずいデッサンの幾枚かゞ、茶色にやけて、納戸の奥から出て来ると、まるで別な世界だった私を見る。
 夜炬燵にあたっていると、店の間を借りている月琴ひき[#「ひき」に傍点]の夫婦が漂々と淋しい唄をうたっては、ピンピン昔っぽい月琴をひゞかせていた。
 外はシラシラと音をたてゝみぞれまじりの雪が降っている。

 十二月×日
 久し振りに海辺らしいお天気。
 二三日前から泊りこんでいる、浪花節語りの夫婦が、二人共黒いしかん[#「しかん」に傍点]巻を首にまいて朝早く出て行くと、もう煤けた広い台所には鰯を焼いている母と私と二人きり。
 あゝ田舎にも退屈してしまった。
「お前もいゝかげんで、遠くい行くのを止めてこっちで身をかためてはどうかい……お前をもらいたいと云う人があるぞな……。」
「へえ……どんな男!」
「実家は京都の聖護院の煎餅屋でな、あととりやけど、今こっちい来て市役所へ務めておるがな……いゝ男や。」
「………………。」
「どや……」
「会うてみようか、面白いな。」
 何もかもが子供っぽくゆかいだった。
 田舎娘になって、おぼこらしく顔を赤めてお茶を召し上れか、一生に一度はこんな芝居もあってもいゝ。
 キイラリ キイラリ、車井戸のつるべを上げたりさげたりしていると、私も娘のように心がはずんで来る。
 あゝ情熱の毛虫、私は一人の男の血をいたちのように吸いつくしてみたいような気がする。
 男の肌は寒くなると蒲団のように恋しくなるものだ。

 東京へ行こう!
 夕方の散歩に、いつの間にか足が向くのは駅。駅の時間表を見ていると涙がにじんで来る。

 十二月×日
 赤靴のひもをといてその男が上って来ると、妙に胃が悪くなりそうで、私は真正面から眉をひそめてしまった。

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