アパートが、火事にでもならないかしら。
 寝転ろんで新聞を見る。
 きまって目の行くところは、芸者と求妻と、貸金と女中の欄だ。
「お姉さん! こんど常盤座へ行かない、三館共通で、朝から見られるわ、私歌劇女優になりたくて仕様がないのよ。」
 ベニは壁に手の甲をぶっつけながら、リゴレットを鼻の先きで唄っていた。

 夜
 松田さん遊びに来る。
 私は此人に拾円あまりも借りがあって、それを払えないのがとても苦しい。あのミシン屋の二階を引き払って、こんな貧乏アパートに越して来たのも一つは松田さんの親切から逃げたい為だった。
「貴女にバナヽを食べさせようと思って持って来たのです。食べませんか。」
 此人の言う事は、一ツ一ツ何か思わせぶりな言いかたになる。
 本当はいゝ人なんだがけち[#「けち」に傍点]でしつこく[#「しつこく」に傍点]て、小さい事が一番嫌いだった。
「私は自分が小さいから、結婚するんだったら、大きい人と結婚するわ。」
 いつもこう言ってあるのに、此人は毎日のように遊びに来る。
 さよなら! そう云って帰えって行くと、非常にすまない気持ちで、こんど[#「こんど」に傍点]会ったら優しい言葉をかけてあげようと思っても、こうして会うと、シャツの目立って白いのなんかとてもしゃく[#「しゃく」に傍点]だった。
「いつまでもお金かえせないで、本当にすまなく思っています。」
 松田さんは酒にでも酔っているのか、わざとらしくつっぷしてゴブゴブ涙の息をしていた。
 さくらあらいこ[#「さくらあらいこ」に傍点]の所へ行くの厭だけど、自分の好かない場違いの人の涙を見ている事が辛らくなったので、そっとドアのそばへ行く。
 あゝ拾円と云う金が、こんなにも重苦しい涙を見なければならないのかしら、その拾円がみんな、ミシン屋の叔母さんのふところへ、はいって私には素通して行っただけの拾円だった。
 セルロイド工場の事。
 自殺したお千代さんの事。
 ミシン屋の二畳でむかえた貧しい正月の事。
 あゝみんなすぎてしまったのに、小さな男の涙姿を見ていると、同じような夢を見ている錯覚がおこる。
「今日は、どんなにしても話したい気持ちで来たんです。」
 松田さんのふところには、剃刀のようなものがキラキラ見えた。
「誰が悪るいんです! 変なまねは止めて下さい。」
 こんなところで、こんな好きでもない男に殺ろ
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